仁井田五所神社 ⇒ 旧松山街道の基点に脱藩志士の面影を追う

仁井田五所神社とは

仁井田五所神社(にいだごしょじんじゃ)は、高知県高岡郡越知町横畠東(たかおかぐんおちちょうよこばたけひがし)にある神社だ。

祭神は大日本根子彦大述尊(おおやまとねこひこおおじのみこと・孝霊天皇)、磯城細姫命(しきくわしひめのみこと)、大山祇命(おおやまずみのみこと)、吉備彦狭島命(きびひこさしまのみこと)、伊予二名洲小千命(いよふたなしまおとみこと)、伊予嶋天狭貫命(いよしまあめのさづちのみこと)

仁井田 - 四万十町地名辞典  地名は先人の語り部 「進化する辞典」 「地名の井戸端会議」廣江井清『長宗我部地検帳の神々p110』で「仁井田宮は43社(安芸郡4、香美郡7、長岡郡11、土佐郡3、吾川郡1、高岡郡2、幡多郡15)」と県内の分布を示し「仁井田という神名は何を意味するのであろうか。端的に言って”仁井田”は”新田”ではなかろうか。(中略)つまり新田(にいだ)の宛字が仁井田であろうというわけである。また新井田というのがある。」と述べている。

続いて廣江氏は「新田の守り神が仁井田大明神であり仁井田権現である。”神社明細帳”の祭神からみると、一番多いのが大山祇神、五山祇(書記の一書に出ている五柱の神、山の神の各種の徳を表したもの)である。山ノ神として伝承されたものが、神名決定の時に山祇神があてられたものであろう。」と述べている。

新田なのに山ノ神とは変に思われるが、『綜合日本民俗語彙』には山の神について「山を支配する神。農民はこれを田の神と結びつけて信じており、春秋二季の特定の日に山の神が田の神と交代するとか、山の神が里に降りて田の神となるとかいう話は古くから広範囲に行われていた。」とある。

諏訪将人『志和物語p44』で「高知県史の中で、新居神社、五所神社、仁井田神社、新田神社、五社等の名前で出てくる仁井田神社関係を拾ってみると、安芸郡7、香美郡16、長岡郡23、土佐郡7、吾川郡3、高岡郡15、幡多郡17、計88社である」とし、「概ね大山祇神、五山祇神を祭神としており、これらの中で越智氏の祖神である大日本根子彦大述尊(おおやまとねこひこおおじのみこと・孝霊天皇)、磯城細姫命(しきくわしひめのみこと)、大山祇命(おおやまずみのみこと)、吉備彦狭島命(きびひこさしまのみこと)、伊予二名洲小千命(いよふたなしまおとみこと)、伊予嶋天狭貫命(いよしまあめのさづちのみこと)等五柱の越智氏祖神を祭神とする仁井田神社は次の八社である。」としてる。

・高岡神社(仁井田五社):高岡郡四万十町仕出原(宮内)

・仁井田神社      :高知市仁井田(旧長岡郡三里)

・仁井田神社      :長岡郡本山町吉延(旧記/高岡神社より勧請)

・五社神社       :南国市稲生

・仁井田神社      :高知市北秦泉寺(旧記/高岡神社より勧請)

・仁井田五所神社    :香美市土佐山田町佐野

・仁井田五所神社    :高岡郡越知町横畠東

・五社神社       :土佐市新居本村

仁井田 – 四万十町地名辞典  地名は先人の語り部 「進化する辞典」 「地名の井戸端会議」から引用

駐車場

この日は茶園堂を参拝後、車で仁井田五所神社にやってきた。

茶園堂 ⇒ 170年間の片岡氏の栄華を伝える
茶園堂とは 茶園堂(ちゃえんどう)は、高知県高岡郡越知町片岡(たかおかぐんおちちょうかたおか)にあるお堂だ。 ここは以前にも訪れたことが...

駐車場はないのだが、近くに公民館があって駐車スペースがあるので、そこを利用させてもらった。

あまり車も通らないので、路上駐車でも問題なさそうだが一応。

すぐ先に、鳥居がある。

旧松山街道

この場所は旧松山街道(きゅうまつやまかいどう)が通っている。

坂本龍馬たちも、ここを通っていたのだろう。

詳しい説明が書かれている。

旧松山街道この道は土佐と伊予とを結ぶ重要な往還で、道幅が一間(1.8メートル)と言う基準があり、当時としては結構広い。伊予では、松山から土佐界までの道を土佐街道と呼び、土佐では高知城下から伊予界までを松山街道と言う。

薬師堂は、街道沿いの重要な宿場であり、明治のころは店屋や宿屋が七軒も並んでいたという。藩政時代の土佐・伊予間の通行にはこの街道が主に利用されており、両国の物資交易や文化のほか百姓一揆や脱藩の志士たちが命がけで駆け抜けた道でもある。1852年にはアメリカから十一人の役人と共に帰国したジョン万次郎、1859年には長崎へ行くために岩崎弥太郎や坂本龍馬の右腕と言われる長岡謙吾など、歴史上の著名人もこの街道を使用している。

1864年8月14日には田中光顕・大橋慎三・山中安敬・井原応輔・片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就の祈願をし、黒森越えで脱藩している。その途中で腹痛を起こした井原は、薬師堂の店屋「与市」で馬を借り、黒森まで与市も同行したという。

1868年には土佐藩の兵1610人が松山征討に行く時は地元の人たちも街道の広場に集まって見送り、1882年に薬師堂の大山祇神社で行われた自由民権集会など世直しの人達も使用している。(看板引用)

旧松山街道から引用

以前、黒森山登山をした時に、この旧松山街道を通っている。

黒森山 ⇒ 仁淀川の背景にそびえるどっしりした山塊
黒森山とは 黒森山(くろもりやま)は高知県吾川郡仁淀川町にある。 越知(おち)の町中からもその姿が望め、山頂にアンテナがあることからすぐ...

この道を行くと、黒森山登山の起点の薬師堂に続く。

こちらもぜひ歩いてみたい。

参道

鳥居をくぐって、仁井田五所神社に向かう。

狛犬。

なかなか凜々しい顔立ちだ。

県道の下をくぐる。

すぐに見えてきた。

この先に、いちいかしの巨木がある。

日本あちこち河川遡行記(第54回)new! | NPO法人 社会基盤ライフサイクルマネジメント研究会(SLIM JAPAN)仁井田五所神社の境内には高さ48m、樹齢450年の櫟樫(いちいかし)の樹が聳えている。東側の仁淀川を上から睥睨しているかのような姿である。

11.仁井田五所神社の櫟樫は樹齢450年

日本あちこち河川遡行記(第54回)new! | NPO法人 社会基盤ライフサイクルマネジメント研究会(SLIM JAPAN)から引用

参拝

拝殿。

扁額に仁井田五所神社と書かれている。

内部はきれいに清掃されている。

本殿はトタン板で囲われていて、見ることはできない。

旧松山街道の道標らしきものがあった。

石碑。

参拝を終え、車に戻る。

感想

周囲はうっそうとした森になっており、歴史を感じる。

その分参道は落ち葉に埋もれてしまい、少し残念だ。

旧松山街道も通っているので、歴史を感じながら参拝したい。