湖東三山とは
湖東三山(ことうさんざん)とは、琵琶湖東岸の西明寺、金剛輪寺、百済寺を指す。
紅葉の名所として知られている。
湖東三山 観光振興連絡会
滋賀県の湖東地域にある西明寺・金剛輪寺・百済寺の三つの天台宗寺院の総称で
琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の西山腹に位置し、紅葉の名所と知られており、
日本の紅葉名所百選にも選ばれています。
まずは西明寺へ
前日は郡上八幡を観光し、近江八幡に宿泊していた。
朝、ホテルを出て西明寺に向かった。
西明寺(池寺) | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!
平安時代、仁明(にんみょう)天皇の勅願により三修上人が開山したと伝えられます。戦国時代には兵火のため荒れ果てていましたが、江戸時代中期に望月友閑(もちづきゆうかん)によって再興されました。
門をくぐると参道が続き、山坊跡の石垣が散在しており、平安、鎌倉、室町時代を通じて祈願・修行(しゅぎょう)道場として栄えたことがうかがわれます。幸い織田信長の兵火を免れ、飛騨(ひだ)の匠によって建立された本堂や三重塔や二天門が残されています。
本堂は、鎌倉時代初期に建立された建造物で、釘を一本も使わない純和風建築です。鎌倉の様式がよく保存され、国宝第一号に指定されています。
本堂の右方に立つ三重塔は、総檜(そうひのき)の優美な姿の塔といわれ、初層内部に極彩色で金剛界の三十二菩薩など鎌倉時代の極楽浄土が描かれています。本堂と同じく釘を一本も使わない純和風建築で、国宝に指定されています。正面両脇に増長天(ぞうちょうてん)、持国天(じこくてん)を祀る二天門は、室町時代に建立され、重要文化財に指定されています。
また、紅葉の名所としても有名ですが、不断桜があり、紅葉と桜を同時に見ることができます。
駐車場に到着。
とても広い駐車場だ。
朝8:50ということもあり、車はまばらだ。
美しい庭が見える。
紅葉にはまだ早かった。
入山料が600円だったので、中には入らず(汗;)
境内の案内図。
金剛輪寺へ
続いて、金剛輪寺に。
金剛輪寺 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!
奈良時代に聖武(しょうむ)天皇の勅願により行基が開山した天台宗の寺院。本尊は行基の作と伝えられます。また、源義経(みなもとのよしつね)が義仲追討の武運必勝を願い太刀を寄進したり、北条時宗が佐々木頼綱に命じて元軍降伏の祈願をしたといわれます。
山門から本堂までサツキに囲まれた石段が続き、山岳城郭であったころの趣を今なお残しています。石段を登りつめたところに、当時の僧の機智により織田信長の焼き打ちによる焼失の難を免れた本堂大悲閣、三重塔、二天門があります。本堂大悲閣は、鎌倉時代の和様建築の代表とされ、国宝に指定されています。本堂前にある二天門は室町時代の建立で、最初、八脚門と呼ばれる楼門でしたが、江戸時代に二階部分が取り壊され現在の形になりました。三重塔は大悲閣(だいひかく)より古いものですが、荒廃したままとなっていたため、昭和49年(1974)復元されました。
ツツジやシャクナゲの名所としても知られ、山門脇に塔頭の常照庵(じょうしょうあん)が草むらに埋もれ残っていて、寺宝にも見るべきものが多いです。また、厄除けのかぶら汁が接侍される初観音や、大きな数珠(じゅず)を回して念仏を唱える千体地蔵盆など有名な行事もあります。
ここの駐車場もとても広い。
紅葉の盛りには、観光バスがたくさん来るのだろう。
入り口には観光マップ。
お寺の説明看板も。
山門。
美しい庭が続く。
入山料は600円。
今回は支払った(笑)
長い参道が続く。
お地蔵様が並んでいる。
よだれかけが色鮮やかだ。
それにしてもすごい数だ。
ようやく本堂に。
中は撮影禁止だった。
三重塔へ。
紅葉には少し早かった。
来た道を下っていく。
庭園まで戻ってきた。
金剛輪寺 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!
黒門(惣門(そうもん))をぬけ、白門をくぐった参道の途中に、金剛輪寺の本坊明寿院(みょうじゅいん)があります。明寿院は、江戸時代の創建といわれ寺宝を多く保存し、かつて学頭所(がくとうしょ)として使われていました。この本坊の南・東・北の三方を囲むように庭園があり、心の字池が3庭を結んでいます。3つの庭は、作庭された年代がそれぞれ異なる池泉回遊(ちせんかいゆう)・鑑賞式(かんしょうしき)の庭園で、それぞれが名勝に指定されています。
桃山時代に造られた庭は、「石楠花(しゃくなげ)の庭」と呼ばれ、庭の中央に架けられた優雅な石橋のそばに、鎌倉時代に作られた苔むした多くの石が配され、品格のある雰囲気です。春になると、庭のそばにある護摩堂のカキツバタやシャクナゲが鮮やかに咲き、華やかになります。
江戸初期の庭は金剛輪寺の主庭で、他の庭と趣が異なり、どっしりと落ち着いた雰囲気です。枯れ滝が配され、夏には池一面に睡蓮(すいれん)が清楚な花を咲かせます。
江戸中期の庭は、滝から池に水が流れ、池の中に七福神の宝船を表わす岩でできた舟が配されています。
また、桃山時代の庭の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を見下ろすように立つ水雲閣は、湖東随一の茶室で、天井に桜、なでしこ、菊など四季おりおりの花が描かれています。またこの茶室からの庭の眺めは美しく、一見の価値があります。
とても美しい庭だ。
建物に上がれるようになっている。
コントラストが美しい。
時代ごとに分かれていて、雰囲気が違っていることが分かる。
百済寺へ
さらに車で百済寺に移動。
釈迦山 百済寺 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!
近江の最古級寺院で、今から1400年の昔、推古14年(606年)に、聖徳太子が百済人のために押立山(771.8m)の中腹に百済国の「龍雲寺」を模して創建された。
龍雲寺と百済寺のご本尊は、同一の巨木から彫られた「同木二体」の十一面観世音菩薩と伝わる。開闢法要には、高句麗僧恵慈をはじめ百済僧道欽が仕え、暦を伝えた観勒も永く住したと言われている。
その後、鎌倉時代には、「天台別院」と称され中枢部の300坊に加えて総計1000坊、1300余人を擁する大寺院となりましたが、室町・戦国時代には度重なる兵火、とくに天正元年4月11日に信長の焼討を受け、ルイス・フロイスは『地上の天国:Facusangi一千坊』の消失を惜しんでいます。
江戸初期になって、井伊家、春日局、甲良豊後守等の寄進を得て現在の本堂・仁王門・山門等が再建されました。
往時の姿は、「石垣参道」、棚田のような「一千坊跡群」、「千年菩提樹」などから偲ぶことが出来ます。
ここの駐車場も広い。
すぐにお寺だ。
坂の上に山門が見える。
なかなか広そうだ。
ここは入らなかった(汗;)
永源寺へ
湖東三山巡りは済んだが、せっかくなので、永源寺へも足を伸ばした。
臨済宗永源寺派 大本山 永源寺
当山は、南北朝時代の興安元年(1361)に、時の近江守護職、佐々木六角氏頼公が、入唐求法の高僧、寂室元光禅師(正燈国師)に帰依し、領内の土地を寄進して伽藍を創建したことが始まりです。
禅師が入寺、開山されると、その高徳を慕って二千人あまりの修行僧が集い、山中には五十六坊の末庵を有したと記されています。
師の滅後も、四人の高弟が教えを守り永源寺を受け継ぎました。応仁の乱の頃には、横川景三といった京都五山の名だたる僧達が、この地に戦難を避けて修行をされました。
しかし、明応(1492)永禄(1563)と続く戦乱によって、当地も兵火の及ぶところとなります。伽藍や山内の幾多の寺院は全て焼け落ち、以後寺運は衰退してゆきました。
江戸時代中期になり、妙心寺の僧、別峰紹印禅師は、永源寺が往時の面影も無く荒れはてていることに嘆き、嘆願書をしたため、自らも石を曳いて復興のために尽力いたしました。弟子の空子和尚も永源寺第七十九世として住職され、彼らの懸命の働きによって、やがて名声高き一絲文守禅師(仏頂国師)を迎えることとなりました。これにより後水尾天皇をはじめ、東福門院(徳川和子)や彦根藩(井伊家)の帰依をうけて伽藍が再興され、ここに再び法燈が輝いたのであります。
明治になり、政府の指導によって、はじめ臨済宗東福寺派に属しましたが、後に永源寺派として独立し、坐禅研鑽、天下泰平、万民和楽を祈る道場として、全国百有余の末寺を統轄する一派大本山となり、今に至っています。
ここの駐車場には、お店が並んでいる。
その先を進む。
看板が立っていた。
少し階段を上る。
右側は谷川だ。
山門に到着。
これが紅葉したらさぞ見事だろう。
看板。
若干紅葉が見られた。
本堂はとても大きい。
本堂から見た庭園。
ここの庭もとても広い。
少し紅葉が楽しめる。
来た道を戻る。
谷川まではかなり高低差がある。
駐車場のお店で、おでんを買う。
ここのこんにゃくは赤い。
コンニャク
製造過程で三二酸化鉄を使い、華やかな赤色のこんにゃく。近江八幡地域でのみ、長年流通してきたこんにゃくで、むしろこの地方では、赤こんにゃくしか製造流通していなかったため、60代以上の世代の人の中には、赤以外のこんにゃくがあることはつい最近まで知らなかったという人もいるほどである。近年は京都方面でも流通しだしている。
感想
とても静かなお寺だった。
紅葉が多かったので、紅葉シーズンはとても美しいことだろう。
もっとも紅葉シーズンは観光客がごった返すだろうが。
車で移動するとあっという間だが、歩いて湖東三山巡りをするのもいいかもしれない。