須賀神社とは
須賀神社(すがじんじゃ)は、高知県須崎市大谷(すさきしおおたに)にある神社だ。
祭神は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊邪那岐命が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神、月読命に次いで鼻を濯(すす)いだときに産まれたとする(阿波岐原は江田神社のある宮崎市阿波岐原町に比定される[1])。これは神道の祝詞、祓詞にもある。 『日本書紀』では伊弉諾尊とイザナミ (伊弉冉尊・伊邪那美命)の間に産まれ天照大神・ツクヨミ(月読)・ヒルコ(蛯児)の次に当たる。
スサノオ – Wikipediaから引用
明治の廃仏毀釈までは、牛頭天王(ごずてんのう)と称した。
牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた[1]。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない[1]。
牛頭天王 – Wikipediaから引用
境内に、天然記念物の大楠が立つ。
樹高25m、樹齢2,000年という巨木だ。
大正13年12月 国・天然記念物に指定
樟の根元の周り約25m、樹高は約25mで、推定樹齢は約2000年といわれ、少なくとも四国最大の巨樹である。
暴風のため大きな基幹の一部は折れたが、今でも大小数本の幹が残り、樹勢は旺盛である。
主幹には空洞があってあり、楠神が祀ってあり、病弱な者も健康になると伝えられて、参拝者が多い。昭和54年10月5日 須崎市教育委員会
【 参考・引用 】 説明板より
四国最大で、日本でも10番目程の巨樹とされる。
高知県の管内の巨木紹介によると推定樹齢2000年、暴風のため大きな基幹の一部が痛々しい姿になっていますが、根本の周囲約25メートル、樹高約25メートルという大きな大きなクスノキで、四国最大級だそうです。
樹高では39mの西宮八幡宮の楠が、日本一だ。
25mなので、それよりは大分低いことになる。
根元には洞があり、その中に入ると病弱な人も元気になるとされる。
主幹には空洞があり、楠神様が祀られています。病弱な者も健康になると伝えられており、乳幼児の成長や健康祈願に訪れる人も多いそうです。祠は空洞の中にあり、参拝者は中に入って祈願できるようになっています。
また境内では秋祭りの際に、高知県無形民俗文化財に指定されている大谷の花取り踊りが奉納される。
500年ほど前から受け継がれてきた伝統ある踊りで五穀豊穣、無病息災、大漁などを祈願し、神様に奉納するお祭りです。昭和44年に大谷花取踊、祭礼の諸道具、儀式が高知県無形民俗文化財に指定されました。
また、この花取踊りは、昔、津野氏が守る岡本城を一条氏が攻めた時、容易に落ちなかったので、神祭を利用して岡本城のふもと(池ノ内)で踊りを踊らせ、岡本城の城兵がこれを見ようと山からおりてきた際、城が留守になり、その隙に一条氏が城に攻め入り落城させたという伝説が残っています。
駐車場
この日は白王神社に参拝した。
その後、須賀神社にやってきた。
鳥居を抜けて二の鳥居の手前を右に行くと、駐車場がある。
ここに駐車した。
駐車するには連絡しろ、と書かれているが、短時間なのでまあいいだろう。
トイレも設置されていた。
平成3年に整備されたようだ。
東屋もあった。
駐車場の先に建物が。
花取り踊り保存会の建物だ。
参道
二の鳥居に向かう。
真新しい鳥居だ。
扁額。
振り返ると、参道が海まで続く。
狛犬。
まだ新しい。
広い境内。
手水舎。
参拝
拝殿。
花取り踊りの説明が貼られていた。
内部はこんな感じ。
漁船の模型が飾られているのが、漁村ならではだ。
本殿。
なかなか立派だ。
境内
摂社。
参拝する。
まずは左側に。
内部はこんな感じ。
そして右側。
竃土神社だ。
さらに右側にも参拝。
内部はこんな感じ。
記念碑。
昭和3年のものだ。
花取り踊りの石碑。
大谷の樟
拝殿の右側が、大谷の樟だ。
手前には、天然石のベンチ。
平成4年にできた、なかなか立派なものだ。
幹周りが非常に太い。
根元の周り25mとのこと。
しめ縄が張られている。
洞に入ってみた。
内部に神棚がある。
祠を出て、楠の周囲を回ってみた。
根も極太。
洞の裏側。
樹勢も盛んだ。
これで一周。
参拝を終え、中ノ島に向かった。
感想
以前にも来たことがあるのだが、何度来ても素晴らしい神社だ。
きれいに清掃されていて、気持ちいい。
樟の見事さも、実際に体験してみないと分からないだろう。
一度は参拝して欲しい。