粉河寺とは
風猛山粉河寺(ふうもうざんこかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河(わかやまけんきのかわしこかわ)にある粉河観音宗(こかわかんのんしゅう)の総本山だ。
西国三十三所第3番札所で、大伴孔子古(おおとものくじこ)により770年に創建されたと伝わる。
奈良時代末 宝亀元年(770)の開創。当時、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や 鹿を狙っていたが、ある晩、光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。 後日、一夜を泊めてもらった童行者は、孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)をかなえてやろうと、七日七夜、庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。
本尊は、千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)
平安時代に書かれた清少納言の『枕草子』や西行の『山家集』に粉河寺への言及があるなど、古くから観音霊場として著名であった。
駐車場
2022年1月2日、この日は根來寺に参拝した。
そこから車で、粉河寺にやってきた。
最高点の標高: 149 m
最低点の標高: 55 m
累積標高(上り): 109 m
累積標高(下り): -155 m
総所要時間: 00:28:21
橋を渡ってすぐの有料駐車場は1,000円だった。
この日は初詣の車で行列で、この先の粉河寺の駐車場まで待つと時間がかかりすぎると判断して有料駐車場をチョイス。
参道
1707年に建立され国の重要文化財になっている大門。
規模の大きい三間楼門で、和歌山県では、高野山・根来寺に次ぐ威容を誇る。宝永四年(一七〇六)総欅造り。金剛力士は仏師春日の作と云われ、尊像の用材は桂の巨木。
金剛力士は仏師春日の作と伝わる。
この先に粉河寺の有料駐車場があり、そこなら500円だった。
時間を買ったと思いましょう。
お昼時なので、茶店に吸い寄せられる俺(笑)
案内看板でルートを確認。
左甚五郎作の「野荒らしの虎」という彫刻があるそうだ。
境内
中門まで歩いてきた。
1832年の建立だという。
三間二戸の桜門として標準的な規模をもち、軒まわりまで良質の欅材で繊細な建物に仕上げている。天保三年(一八三二)の建立で四天王を祀る。「風猛山」の扁額は、紀州徳川十代藩主、治宝候の直筆である。
四天王が収められている。
粉河寺庭園は桃山時代のもので、国の名勝に指定されている。
立派な本堂で、行列するはずだ。
現存の本堂は1720年に再建されたものだという。
八世紀(七七〇)の創建より、数度の造営と改造を繰り返し、現存の当本堂は享保五年(一七二〇)に再建された。江戸時代中期の欅材による代表的建築で西国三十三ヶ所の中で最大である。他に類例を見ない特異な形態で、一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂とが結合した構成を持つ複合仏堂の形式である。
国の名勝に指定されている庭園。
本堂の前庭とその下の広場との高低差を処理する土留めとして、又、その広場から雄大な本堂を仰ぎ見る前景として築かれた石組みで、日本庭園の中でも先例のない様式である。
参拝
本堂も国の重要文化財になっている
説明看板。
770年に建てられたあと、何度も建て直されてきた。
続いて、粉河産土神社(こかわうぶすなじんじゃ)に向かう。
粉河産土神社は、鎮守として崇められてきた。
旧粉河の鎮守で粉河寺内の鎮守でもある。粉河祭は、この産土神社の祭で、渡御が古式に従い行われる。
江戸中期の建築になる春日造の華麗な社殿。背後の山は風猛山と呼ばれ、経塚が出土している。
粉河産土神社 から引用
祭神は、丹生津比賣命(にうつひめのみこと)
国の重要文化財になっている千手堂にやってきた。
1760年の建立だという。
宝形造りの三間堂、細部様式では本堂と一脈相通ずる面を持っている。宝暦十年(一七六〇)の建立。正面に千住観世音菩薩両側の脇壇には紀州歴代藩主とそのゆかりの人々の位牌を祀っている
参拝が抜かっていたので(汗;)戻って、薬師堂に参拝する。
粉河稲荷神社に参拝する。
粉河産土神社の並びなのに、気づかずに通過していた(汗;)
左甚五郎作の「野荒らしの虎」を見るために、本堂に戻ってきた。
どうやら本堂内陣に入らないと、見られないようだ。
「野荒らしの虎」徳川八代将軍吉宗の寄進(本堂内陣にて拝観可)
1720年建立の六角堂。
三十三観音を安置する六角堂
帰路
参道に戻り、蛭子神社(えびすじんじゃ)に参拝する。
駐車場に戻ってから、樹齢1000年の楠を見るのを忘れていたことに気づいた(汗;)
車で先に進んだ。
最高点の標高: 71 m
最低点の標高: 53 m
累積標高(上り): 41 m
累積標高(下り): -39 m
総所要時間: 00:36:14