樫野埼灯台とは
樫野埼灯台(かしのざきとうだい)は、和歌山県東牟婁郡串本町樫野(わかやまけんひがしむろぐんくしもとちょうかしの)にある灯台だ。
大島の東端、樫野の断崖に日本最古の石造り灯台が今も活躍しています。 現在は自動点灯の無人灯台で内部は非公開ですが、ラセン階段を登り、遠くは太地町の梶取崎まで見通すことができます。
また、園地内にはかつて常駐していたイギリス人技師が故郷を思い植えたと言われる水仙が今も群生しており、冬には可憐な花が咲き乱れ、あたりは甘い香りに包まれます。
樫野埼灯台 – 南紀串本観光ガイド から引用
和歌山県下最大の島である紀伊大島(きいおおしま)の東端にあり、1890年に日本とトルコの友好関係のきっかけとなったエルトゥールル号遭難事件が発生した。
駐車場
2022年1月8日、この日は潮岬に立ち寄った。
そこから車で、紀伊大島(きいおおしま)にやってきた。
最高点の標高: 117 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 232 m
累積標高(下り): -232 m
総所要時間: 00:19:10
樫野崎駐車場に車を停める。
駐車場はとても広い。
カフェも設置されていた。
トルコ記念館
まず案内看板でルートを確認。
トルコ記念館まで歩いてきた。
1890年に日本とトルコの友好関係のきっかけとなったエルトゥールル号遭難事件が発生した。
横浜港を出た翌日の9月16日、エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖を航海していましたが、同海域において折からの台風に遭遇、猛烈な波浪と強風のために航行の自由を失い、次第に樫野崎に寄せられ、古より船乗りたちにおそれられた船甲羅岩礁に激突しました。 船体破損部から流入した海水が機関の爆発を引き起こし、オスマン海軍少将以下587名が殉職、生存者わずかに69名という大海難事故となりました。
日本とトルコの絆をつないだ物語|串本町 から引用
その際に大島島民は不眠不休で生存者の救助や遺体捜索、引き上げにあたり、日本全国からも多くの義金、物資が寄せられた。
それをきっかけに、日本とトルコは友好関係を築いている。
ここにはトルコ人が経営するショップもある。
エルトゥールル号の慰霊碑。
明治じゃん。
580名あまりが犠牲となった大惨事だった。
樫野埼灯台
樫野埼灯台(かしのざきとうだい)まで歩いてきた。
ムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像。
第一次世界大戦後、トルコ独立戦争とトルコ革命を指導してトルコ共和国を樹立し、現代トルコの国父と呼ばれているそうだ。
第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導してトルコ共和国を樹立。スルタン制を廃止して、イスラム教との政教分離などトルコの近代化を推進した、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。現代トルコの国父[2](建国の父)とも呼ばれる。
樫野埼灯台に到着。
日本で最初の洋式石造り灯台だそうだ。
らせん階段で灯台に上がれるようになっている。
ここから海を一望できる。
島の突端なので、海がとてもきれいだ。
ここは水仙で有名らしい。
樫野埼灯台を設計したブラントンが植えたのが始まりで、彼の帰国後は地元の人が10万本以上のスイセンを植えている。
串本町はスイセンを町花に定めている。
灯台と旧官舎の周辺に咲くスイセンは、ブラントンが外国人居留地でもない異国の辺境で、技師たちの孤独な生活を癒やすために母国から苗を取り寄せて植えたのが始まりという。同灯台完成後、ブラントンは串本を離れたが、地元の人がブラントンや技師たちの故郷への思いを受け継ぎ10万本以上のスイセンを植えてきた。串本町はスイセンを町花に定めている。
ぐるっと樫野埼灯台を一周した。
車で先に進んだ。
最高点の標高: 44 m
最低点の標高: 14 m
累積標高(上り): 75 m
累積標高(下り): -75 m
総所要時間: 00:23:56