板橋宿とは
板橋宿(いたばししゅく)は、中山道の日本橋から数えて1番目の宿場だ。
同時に、川越街道(川越児玉往還)の起点でもある。
江戸日本橋から二里半、かつて中山道の宿場として栄えた板橋宿があるエリアです。 板橋駅⇔板橋本町駅 4.5km
板橋散策コース|板橋区公式ホームページ から引用
『板橋』の由来を知ってる?中山道の歴史を紐解く!【旅行VLOG、レビュー】3つの宿場からなる板橋宿は2,200mに及ぶ屈指の宿場町!本陣や脇本陣の跡地を巡る!皇女和宮も嫁ぐ際に避けて通った縁切榎とは?
平尾宿
2024年9月2日、この日は『人生初』の電動キックボードLUUPで板橋区役所前までやってきた。
これから板橋宿(いたばししゅく)を見学する予定だ。
まず平尾町脇本陣に向かう。
旧中山道に出てきた。
現在は商店街になっている。
氷川神社の幟が立っていた。
平日の昼間だが、意外と人通りは多い。
「生きている商店街」だと感じた。
高知の商店街は死にかけているので、うらやましい限りだ。
路地を入る。
板橋宿平尾町脇本陣跡に到着。
現在はマンションになっており、石碑が建っているだけになっている。
中山道板橋宿 平尾脇本陣・豊田家屋敷跡
〒173-0004 東京都板橋区板橋3丁目15
板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称で、平尾宿(ひらおしゅく)「下宿〈しもしゅく〉ともいう」は最も日本橋側の宿場だ。
豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていた。
1868年、近藤勇は平尾一里塚付近で処刑された。
仲宿
元来た道を戻る。
「板橋宿」と書かれた門があった。
板橋宿は3つの宿場の総称。
信号の向かい側が、真ん中の「仲宿」になる。
変電ボックスの案内看板でルートを確認。
板橋宿は中山道の日本橋を出発して最初の宿場町だ。
20町9間、およそ2,200mにも及ぶ。
江戸四宿の一つとして栄えた。
旧中山道を歩いて行く。
車は一方通行になっている。
気になるお店がたくさんある。
昭和の時代には、こうした商店街で暮らしていた。
懐かしさにこみ上げるものがある。
中野に住んでいた頃はこんな商店街を歩いて通っていた。
本陣跡に到着。
代々新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡。
代々新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡です。江戸時代、参勤交代の際に本陣や脇本陣は、宿場における重要な施設でした。参勤交代で通行した大名や幕府の公用の武士、僧や公家などが休憩しました。
江戸から10kmしかなかったので実際に宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用されていた。
板橋宿中宿脇本陣跡
〒173-0005 東京都板橋区仲宿54
路地を入ったところの突き当たりが脇本陣跡。
代々宇(卯)兵衛を世襲し、板橋宿中宿の名主を務めた脇本陣飯田家の屋敷跡。
飯田家は、大坂の陣で豊臣家に仕えたとされる。
板橋宿中宿脇本陣跡
〒173-0005 東京都板橋区仲宿54
ここまでが仲宿。
上宿
石神井川(しゃくじいがわ)が流れている。
ここが「板橋」の名前の由来となった橋だ。
コンクリート製だが「板橋」をイメージさせるように木製っぽくデザインされている。
石神井川(しゃくじいがわ)は荒川(あらかわ)の支流で、小平市(こだいらし)から流れてきている。
昔は渓谷だったそうだが、現在はコンクリート三面張りで用水路のようになってしまった。
交差点に、縁切榎(えんきりえのき)が鎮座する。
仲宿商店街の一角にひっそりと立つこの縁切榎は、全国から多くの参拝者が後を絶ちません。江戸時代、旗本・近藤登之助の抱屋敷にあった榎が、後に「縁切り」に結びつき、幅広い信仰を集めました。
榎大六天神(えのきだいろくてんじん)のご神木だ。
街道の目印として植えられていた樹齢数百年という榎(エノキ)の大木。
縁切榎
〒173-0001 東京都板橋区本町18
03-3579-2255
江戸時代に向かいに旗本近藤登之助の抱屋敷にあり、そこの榎が「縁切榎」と呼ばれるようになった。
嫁入りの際には、縁が短くなることを恐れ下を通らなかった。
皇女和宮が14代将軍徳川家茂に嫁ぐ際、縁起が悪いとしてこの場所を迂回したという逸話が残っている。
現在の榎は3代目の若木になっている。
これが初代のようだ。
近代では「悪縁は切ってくれるが、良縁は結んでくれる」ものとして礼拝の対象となっている。
帰路
来る時に気になっていたニュークイックで、ハムカツを買ってみた。
なかなかハムが厚くて、食べ応えがあります。
板橋町役場跡で食べた。
帰りはやはりLUUPを利用。