臥龍山荘とは
臥龍山荘(がりゅうさんそう)は、愛媛県大洲市(えひめけんおおずし)にある建物だ。
1907年に完成した茅葺き屋根の日本建築で、臥龍院(がりゅういん)、不老庵(ふろうあん)、知止庵(ちしあん)の3つの建物からなる。
国の重要文化財で、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンに一つ星掲載されている。
現在の山荘は、明治時代に新谷出身の豪商で木蝋貿易に成功した河内寅次郎(常住地:神戸)が、老後の余生をここで過ごしたいと大洲随一の景勝地であるこの地に明治30年頃から10余年をかけて築造した別荘です。
沿革 から引用
肱川
この日は大洲城を見学した。
そこから大津市民会館まで歩いてきた。
肱川(ひじかわ)沿いに歩いていく。
ツツジが満開だ。
臥龍山荘に到着。
6台ほど停められそうな駐車場がある。
斜面を少し下った右側が、臥龍山荘の入り口だ。
入場料は550円。
蓬莱山
中に入る前に、上から見えた小島に行ってみることにした。
ここは蓬莱山(ほうらいさん)といい、臥龍の名のいわれとなっている。
大洲藩主加藤泰恒が「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」という言葉が由来で、「臥龍」と名付けて誕生した。
臥龍山荘 – Wikipedia から引用
史跡の石碑。
東屋があった。
ここから臥龍山荘を見ると、石垣に石仏が置かれているのが見える。
臥龍院
臥龍山荘に戻り、まず臥龍院の中に入る。
天井が高く、思っていた以上に開放感がある。
とても美しい日本家屋だ。
ここを建てた河内寅次郎の写真。
庭の先に、さっき行ってきた蓬莱山が見える。
構想10年、工期4年、河内寅次郎がその情熱をもっともそそいだ建物です。この母屋は周囲に調和した均整の美を取り入れ、屋根は茅葺、農村風寄棟の平屋建てとして全国各地より吟味した銘木を使用し、隅々にまで計算し尽くされた設計です。相談役に茶室建築家の八木氏、施工は大洲:中野寅雄、京都:草木國太郎の名大工が手掛け、建物細部には千家十職、絵画も当時の大家に手によるものです。材料の精選、着想の秀抜、加えて名工の卓越した技術が相まって里には稀な名建築となっています。
臥龍院 から引用
知止庵
庭に出て、知止庵に向かう。
浴室だったものを、茶室に改造したという。
躙口。
臥龍院と同時期に浴室として建てられた建物。昭和24年に内部を改造して茶室とされました。「知止」の扁額は大洲藩第10代藩主加藤泰済の筆です。陽明学者中江藤樹の説いた教えから「知止」という庵名が生まれました。壁の腰張には皇室の名代を徳川家で迎えるとき、その接待役を勤めた第3代藩主藩泰恒の「茶方日記」の反古です。
知止庵 から引用
地面には苔がびっしり。
不老庵
不老庵に入る。
天井が弧を描いているのが特徴的だ。
木造茅葺平屋建5坪、木造瓦葺平屋建茶室3坪 臥龍淵を眼下に見る崖の上に懸り造りに建てられた数寄屋造りで、庵そのものを船に見立てて作られており、天井は竹網代一枚張りを船底の形のような形にしてあります。対岸の冨士山右端から月が昇り、天井に反射して部屋を明るくする巧妙な趣向が施されています。 床には2間幅の仙台松の1枚板を使用し、2間の曲がり竹を落とし掛けにし、違い棚をつけない簡潔な仕上がりです。 入口縁続きに大徳寺庵孤篷庵に見るような素朴な意匠の茶室があり、外に出て裏に廻ると生きた槇の木を使った「捨て柱」が見られます。これは建築当時、懸り造りの基準に使われたもので建てられています。
不老庵 から引用
外に回って、生きたまま柱として使われているという槙を見にいく。
岩の中に泉、そこにも生花。
一点の手抜きも無い、素晴らしい庭園だ。
石垣
臥龍院に戻ってきた。
石垣も3種類の組み方をしているそうだ。
生きた木を活かして石垣を組み、根もわざと出している。
「乱れ積み」、「末広積み」、「流れ積み」と変化を持たせた石積みの中に生きた「チシャの木」が繁茂し、自然と人工の共存を感じさせる。次に石垣の中に埋め込まれた石臼に目をとられる。流れ積みの中に船に見立てた石があり、何かを語りかけられているようでもあります。
庭園 から引用
臥龍山荘を出て、坂道を先に進んだ。
大洲の町歩きに向かう。
感想
素晴らしい場所だった。
ミシュランの星を取っているというのも、うなずける。
庭園としてみても、お勧めできる。
しかも維持管理も完璧。
ここはぜひ立ち寄りたい。
最高点の標高: 37 m
最低点の標高: 10 m
累積標高(上り): 179 m
累積標高(下り): -180 m
総所要時間: 02:07:02