宇佐神宮とは
宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市南宇佐(おおいたけんうさしみなみうさ)にある豊前国一宮だ。
全国に約4万600社ある八幡社の総本宮だ。
祭神は、八幡大神 (はちまんおおかみ)、比売大神 (ひめのおおかみ)、神功皇后 (じんぐうこうごう)
八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。
全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。
宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。
御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に
ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。
これが宇佐神宮の創建です。
由緒 | 八幡総本宮 宇佐神宮 から引用
宇佐神宮
大分県宇佐市南宇佐2859
0978-37-0001
駐車場
2022年4月13日、この日は元禄うどんでランチを済ませた。
そこから車で、宇佐神宮(うさじんぐう)にやってきた。
駐車場は自走式の有料駐車場で、とても広い。
駐車料金は400円。
最高点の標高: 1035 m
最低点の標高: 11 m
累積標高(上り): 642 m
累積標高(下り): -1666 m
総所要時間: 01:51:32
参道
表参道まで歩いてきた。
名物の宇佐飴を売っている店が並ぶ。
宇佐飴とは、宇佐神宮のお土産として人気のある飴です。この宇佐神宮の門前町でしか売られていない大変珍しい飴です。
一見白い塊なのですがポンと叩くとすぐに割れ、割れた飴のかけらはグニャっと柔らかいもののべたつかず、キャンディというよりはキャラメルやガムに近い食感です。味は甘さ控えめなので食べ飽きせず、一袋ペロッと食べてしまえそうなほどです。
材料は麦芽ともち米しか使っていないので甘さ控えめながらも食べ飽きしないのが分かる気がします。
狛犬。
由緒書き。
神代に比売大神(ひめのおおかみ)が御許山に降臨したと『日本書紀』に記されている。
571年に応神天皇の御霊が現れ、725年に創建された。
八幡様式の鳥居。
蒸気機関車が展示されていた。
全国に4両しか保存されていない、貴重な文化財だという。
この機関車は明治24年(1891年)にドイツ・ミュンヘン
クラウス社が製造 明治27年に九州鉄道(国鉄の前進)が
購入し活躍していましたが 昭和27年機関車の大型化に圧され
大分交通に譲渡の後 宇佐参宮線の主役となりました。その後昭和40年8月に廃止されました
『宇佐参宮線26号蒸気機関車 大分県指定有形文化財 』宇佐・豊後高田(大分県)の旅行記・ブログ by nadeshiko28さん【フォートラベル】 から引用
宇佐八幡神輿の碑。
749年に東大寺大仏殿の造営に貢献した八幡大神が東大寺に招かれた際、八幡様を神輿(みこし)に乗せて東大寺までお連れしたのが神輿の起源と言い伝えられている。
宇佐神宮は神輿(みこし)発祥の地としても有名。749年(天平21年)、東大寺大仏殿の造営に貢献した八幡大神が東大寺に招かれた際、八幡様を神輿(みこし)に乗せて東大寺までお連れしたのが神輿の起源と言い伝えられています。
宇佐神宮は、国の史跡に指定されている。
このことを機に、中央での八幡信仰が広がった。
神橋を渡る。
明治43年に石橋が架けられるまで、朝廷より宇佐神宮に勅使が派遣され参道を参進される時には、その都度、板橋を新設する習わしだった。
この橋は現在、表参道の一部として、宇佐神宮神域への主な入口となっている。
この神橋は、不幸と邪悪なものからの守護を象徴する明るい朱色で塗らており、その側面には宇佐神宮の社紋である「左三つ巴」が装飾されている。この3つの渦巻きの紋章は八幡神を祀る神社でよく見られる。
神橋/宇佐市 から引用
宇佐神宮は、全国に16社しかない勅使が遣わされる勅祭社となっている。
八幡鳥居の特徴は、「笠木(かさぎ)」と「島木(しまぎ)」があり、「貫(ぬき)」は柱を突き出ている。
宇佐神宮独自の鳥居で、上宮の入口に設置されています。笠木がそり上がり、額束がなく、柱の上部に黒い台輪が付いているのが特徴です。朱色は厄除けや魔除けの意味合いがあり、境内の鳥居はすべてこの様式になっています。
宇佐神宮/宇佐市 から引用
境内
境内社の黒男神社の祭神は、武内宿禰。
流鏑馬(やぶさめ)が行われている。
2019年に天皇陛下即位を祝って同神宮で初めて奉納されたのを機に、無病息災や五穀豊穣(ほうじょう)などを願う神事として続いている。
宝物庫は休館日(汗;)
手水は竹の筒から水が流れ出る形式になっていた。
案内看板でルートを確認。
宇佐神宮は、神仏習合発祥の地だ。
720年に大隅国の隼人の反乱を鎮圧したが、この時の殺生を悔いた八幡神が仏教に救いを求め、仏教の戒律である「殺生戒」を元とする「放生会」を行ったことが、神仏習合の始まりとされている。
8世紀のはじめころに起きた隼人の反乱を制圧するため、八幡神を神輿(みこし)に乗せ、宇佐の人々も参加されたことが記しています。 その歴史は、宇佐神宮の重要な祭礼(さいれい)である「放生会(ほうじょうえ)」として今日に伝えられており、隼人との戦いで殺生の罪を悔(く)いた八幡神が、仏教に救いを求めたことに起因しています。これを契機に、宇佐での神と仏が習合した先進的な思想が成立しました。
神仏習合 | 八幡総本宮 宇佐神宮 から引用
春宮神社の屋根は銅板。
御神酒が奉納されている。
下宮
下宮にやってきた。
八幡大神、比売大神、神功皇后の三柱が祀られている。
古くは御炊殿といわれ、かつて神前にお供えする食事を作る場所でした。農業、漁業をはじめとする一般産業の発展充実を守る神として、上宮と同様に八幡大神、比売大神、神功皇后の三柱が祀られています。宇佐地方では「下宮参らにゃ片参り」といわれ親しまれてきました。
宇佐神宮/宇佐市 から引用
よく分かっていないおじい。
下宮は嵯峨天皇の弘仁年間(810~824年)に朝廷より造宮使が遣わされ、上宮のご分神をお鎮祭し創祀されました。
古くは御炊殿(おいどの)ともいわれ、神前にお供えする御饌(食事)を炊く竈殿(現下見や授与所)があり、農業・漁業をはじめとする一般産業の発展充実を御守りになる神様であります。
宇佐神宮は「二拝四拍手一拝」の作法で参拝するのが習わしとなっている。
参拝を終え、上宮に向かう立体交差を進む。
769年、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は天皇を廃し自分が天皇になろうとした。
「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」とするお告げが宇佐八幡大神よりおろされたと、嘘の奏上をさせた。
真相を確認した和気清麻呂(わけきよまろ)は道鏡の怒りをかい、大隅国へ流された。
翌年に復職したあと、平安遷都に貢献するなど、勤皇の忠臣と敬われている。
上宮
西大門は修理中。
令和7年の完成予定だという。
上宮に到着。
由緒書き。
本殿は「八幡造」といわれ、2棟の切妻造平入の建物が前後につながった形になっている。
国宝だが、一般公開はされていない。
ここから石清水八幡宮、さらに鶴岡八幡宮と勧請され、全国における八幡信仰の拠点になった。
樹齢800年、高さは約30mのご神木。
推定樹齢800年と言われる御神木です。高さは約30メートルで、上宮の下の地面から根を生やしています。
宇佐神宮/宇佐市 から引用
奥社である大元神社 (おもとじんじゃ)の遙拝所。
願かけひょうたん絵馬。
祭神の神功皇后が母乳を入れて応神天皇に与えたことが由来とされる。
若宮神社。
御霊水
亀山神社。
祭神は、大山積命(おおやまづみのみこと)
『今昔物語集』に「八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れた」と記載されているように、鹿児島神宮が八幡宮の根本社だともいわれている。
宇佐八幡との間にどちらが正統な八幡かを巡って争いが起き、宇佐八幡が人をよこして放火したという伝承がある。
御霊水まで歩いてきた。
この場所に八幡神が現れたとされる。
亀山の麓、菱形池のほとり、三つの霊泉からなる御霊水は、上宮御本殿の真裏(北側)に位置し、往古、常に清水が湧き出で絶えることのない霊泉として知られています。
残念ながら、飲用には不適切だという。
3つ井戸がある。
参拝を終え、車で先に進んだ。
最高点の標高: 35 m
最低点の標高: 9 m
累積標高(上り): 48 m
累積標高(下り): -48 m
総所要時間: 00:41:46