和霊神社とは
和霊神社(われいじんじゃ)は、高知県高知市神田(こうちけんこうちしこうだ)にある神社だ。
祭神は山家清兵衛(やんべせいべい)公頼(きんより)だ。
山家公頼は伊達政宗(だてまさむね)の家臣で、宇和島藩主となった伊達秀宗に連れ添ってきたものの和霊騒動(われいそうどう)で殺された。
その後相次いで宇和島藩に不幸が起こったため、山家公頼のたたりと恐れられた。
その霊を鎮めるために、和霊神社が現在の宇和島市に建立された。
事件後、寛永9年(1632年)、秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃が圧死。その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し、宇和島藩家老の神尾勘解由が、宇和島城の北にある八面大荒神の社隅に小さな祠を建てて、児玉(みこたま)明神としたが、その甲斐なく、秀宗は病床に伏し、秀宗の6男、長男宗實が早世、次男宗時が病没、飢饉や台風、大地震が相次いだ。このことを「清兵衛が怨霊となり怨みを晴らしているのだ」と噂となったため、秀宗は承応2年(1653年)に檜皮の森に神社を建立、京都吉田家の奉幣使を招いて同年6月23日と24日に亘って神祗勘請を行い、「山頼和霊神社」とした。そして享保16年(1731年)に5代藩主伊達村候によって、清兵衛邸跡に今日の和霊神社を創建し、清兵衛の霊を慰めた。
和霊騒動 – Wikipedia から引用
高知市にある和霊神社は、宇和島市にある和霊神社から才谷屋が勧進した。
その後この地に遷座され、坂本龍馬が脱藩する際に参拝したことで知られる。
1762年,才谷屋先祖が建立した神社。1862年3月24日,28歳で脱藩を決意した坂本龍馬は,坂本家の守護神である和霊神社へ詣で,ここで水杯をして,沢村惣之丞とともに梼原から伊予長浜を目指しました。毎年3月下旬には脱藩祭が行われています。
和霊神社 – 高知市公式ホームページ から引用
烏帽子山
この日は烏帽子山に登山した。
山頂から登山道を下っていく。
歩きやすい山道だ。
白土峠(しらととうげ)を過ぎ、おおなろ園まで下ってきた。
おおなろ園は、昭和会の中で唯一の入所型事業所です。主に知的障害のある方が、自然に恵まれた静かな環境の中で生活を送っています。その人らしい自立をし、できる限り当たり前の生活がおくれるよう真心を込めて支援しています。
福祉牧場 おおなろ園 から引用
石鎚神社奥の院
おおなろ園の先に、石鎚神社奥の院が鎮座する。
鳥居を抜けて坂道を上がると、狛犬。
階段を上がると、また鳥居。
その奥に、社が鎮座する。
土佐石鎚教奥の院と書かれている。
紋が違うので、石鎚教とは別の教団のようだ。
石鎚神社の拠点。瀬戸内海、しまなみ海道を見晴らす丘に荘厳な本殿、庭園のように手入れの行き届いた杜が息づきます。国道11号やJR石鎚山駅にも近く、境内には駐車場、社務所、宿泊・会議のできる石鎚神社会館などの諸施設が整備されています。
口之宮 本社 | 石鎚神社 から引用
大きな講堂。
和霊神社
参拝を終え、登山道を下っていく。
一度舗装路になるがすぐに山道となり、和霊神社の道標に従って進む。
拝殿に到着。
境内はこんな感じ。
パンフレットが置かれていた。
参道を下る。
石段だが、歩きにくい。
坂本龍馬脱藩の起点として、説明看板が立っている。
鳥居と石碑。
ここに続く道には、「龍馬脱藩の道」の標識。
潮江天満宮
住宅街を抜けていく。
鏡川まで歩いてきた。
潮江天満宮に到着。
感想
ここに参拝するのは二回目だ。
龍馬脱藩の道の起点として有名なのだが、周辺に駐車場は無く道も細いので、徒歩でアクセスするしかない。
坂本龍馬ファンでないと、なかなか参拝しづらいのが難点だ。
最高点の標高: 362 m
最低点の標高: 6 m
累積標高(上り): 575 m
累積標高(下り): -575 m
総所要時間: 04:00:12