吉備の中山とは
吉備の中山(きびのなかやま)は、岡山県岡山市北区吉備津(おかやまけんおかやましきたくきびつ)にある里山だ。
標高は175mと低いが古墳が残るなど古くから人が住み、吉備の国の中心として栄えていた。
吉備の中山は、遠い昔まだこの地方が吉備の国と呼ばれていた頃、その中心にあったことがその名の由来とも伝えられています。この山に備前一宮の吉備津彦神社と備中一宮の吉備津神社(本殿拝殿・国宝)が寄り添うように鎮座していることからもこのことがうなづけます。 温暖な気候と肥沃な土地、この山裾に海が広がっていた時代には海運業の要所としても恵まれ、ここに住む人々は大きな力を持っていたと考えられます。吉備の中山には、最古の前方後円墳の一つといわれる矢藤治山古墳や、100mを超える大型前方後円墳の尾上車山古墳(国指定史跡)、中山茶臼山古墳(宮内庁管理地)があります。また後期古墳も、立派な石棺の残る石舟古墳などが山のあちこちにあります。このことはこの地方が非常に栄えていたことを物語っています。
登山道
2021年3月9日、この日は吉備津彦神社に参拝した。
そこから吉備の中山登山道に向かう。
まず登山道入り口にあるトイレを利用した。
説明看板。
ここには中国自然歩道という遊歩道が整備されている。
斜度がきつくて、早くも息も絶え絶え(苦笑)
一方、ツレは元気だ(笑)
八大竜王
八大竜王(はちだいりゅうおう)に到着。
しかし参拝しないことになった(汗;)
最高峰なので行きたかったのだが。
吉備の中山の最高峰龍王山(170m)の山頂にこの祠がある。龍神は雲をあやつり雨を降らせる力を持つとされ、雨の少ない岡山南部の農耕社会では重要。八大龍王の祠は天明年間(1781〜88)の大干ばつの時、岡山の商人常磐屋が奉献したもので、豊島石製で8個の穴があいた祠である。「備前国一宮大明神並御両神年中行事」によれば「3月3日山上八體龍王祭禮」とあることから、当会では3月第1日曜日に八大龍王の前で「龍神祭り」を行っている。
木漏れ日の道。
遺跡
夫婦岩遺跡(めおといわいせき)に到着。
しかしここも行かずに通過する。
木漏れ日の道を西に下りきった場所に案内板があり、南に200m下りた所にある遺跡。岡山市の遺跡一覧に記載されながら、所在が長く不明だったが、「吉備の中山を守る会」の調査の結果、平成19年11月に発見され、その周辺と散策道の整備がされている。遺跡の詳細は不明だが、見事な巨岩が仲良く寄り添うように並んでいる姿から、容易に名前の由来が想像できる。少し北側に上がった所から西に行くと石舟古墳群に着く。
お休み岩に到着。
神様がここで休息されたと伝わる。
環状石籬(かんじょうせきり)に到着。
縄文時代の遺跡で環状に自然石をめぐらした墓だそうだ。
大小の岩が並んでいる場所。昭和10(1935)年皇学館大学の高原美忠学長がここを訪ね、著書「神ながらの道」で紹介されたのが名前の起源。著書の中で「配石の状、音江(北海道)のものに似てゐる。但し石は非常に大きい。……早く保存の法を講じてもらひたい。」と述べている。環状石籬とは、縄文時代の配石遺構で、環状に自然石をめぐらした墓で小樽市忍路のものに使われた名称である。しかしこの周囲の歴史、岩の配置などから考えて、これを環状石籬と呼ぶのに異論を唱えている研究者もいる。
分かれ道まで歩いてきた。
右に行くとダイボーの足跡があるそうだが、今回はパス。
長さ20m、深さ50㎝ほどの窪地で、大太郎法師(だいだらぼっち)の足跡とされるそうだ。
ダイボーとは大きな坊さん(大坊)の意味。窪地は足跡のような形をしており、長さ20m、深さ50㎝程度。足の大きさから考えると身長は140m程にもなる。日本各地に伝承されている大太郎法師(だいだらぼっち)と似ている。元々は深さが1m程の人工池。誰が何の目的でいつ頃つくったのかは不明。細谷川の水源近くにあり、西側に畳一畳ほどの岩がある。この場所で水の神を祀る神事をしていたのかもしれない。
御陵
御陵(ごりょう)まで歩いてきた。
中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)で、宮内庁により「大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか)」として保護されている。
穴観音に参拝する。
岩の穴に耳を当てると『観音様の声が聞こえる』という言い伝えが残されているが、聞こえなかった(苦笑)
中山茶臼山古墳の入りくんだ場所にある。中央の岩に石仏を刻み側面に穴が彫られている。この石仏は一般的には観音様と呼ばれているが、阿弥陀仏、大日如来とする説もある。正面に立つと前方に中山茶臼山古墳後円部の頂部があり、穴観音は中山茶臼山古墳の埋葬者を拝む時の磐座であることがわかる。石仏の掘られている岩の穴に耳を当てると『観音様の声が聞こえる』『潮騒(潮が満ちる時の波の音)が聞こえる』という言い伝えが残されている。
御陵の正面まで歩いてきた。
4世紀頃に築かれたと推定されている。
古墳時代前期(4世紀頃)に築かれたと推定される全長105mの大型前方後円墳。四道将軍として大和から派遣された「吉備津彦命」の墓と伝えられ、宮内庁の管理下にある。この古墳を地域では「御陵」と呼んでいる。考古学的調査は行われていないが、墓域からは特殊器台形埴輪が採取されており古い時代の古墳である。吉備津彦命が実在したかは不明だが、南に吉備の穴海が広がり海運の要所であることから、大きな勢力を持った大首長の墓であることは間違いない。
下り
ここは吉備史跡県立自然公園になっている。
景色がいい場所だ。
公園から石段を下りていく。
車道に出て、吉備津神社の方に歩いて行く。
途中から、遊歩道があった。
吉備津神社
吉備津神社が見えてきた。
と思ったら、これは吉備津神社の一番奥にある摂社だった。
前回参拝した時に通った記憶が蘇ってきた。
せっかくなので表参道まで歩いて、そこから参拝することにした。
境内の椿がきれいだ。
吉備津神社に到着。
最高点の標高: 157 m
最低点の標高: 3 m
累積標高(上り): 259 m
累積標高(下り): -263 m
総所要時間: 02:14:25