平戸城とは
平戸城(ひらどじょう)は、長崎県平戸市岩の上町(ながさきけんひらどしいわのうえちょう)にある城跡だ。
江戸時代には平戸藩松浦氏の居城で、別名は亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城ともいう。
1962年に復元され、日本100名城のひとつに選ばれている。
平戸城は、別名亀岡城と呼ばれ、平戸瀬戸に突出した平山城です。山鹿流築城法のもと、1704年松浦家30代棟のとき着工、1718年松浦家31代篤信の時完成。その後、明治の廃城令にて、廃城。
現在の平戸城天守閣は、1962年(昭和37年)復元(天守閣三層五階建)され、
日本100名城のひとつに選ばれています。
平戸城
長崎県平戸市岩の上町1458
0950-22-2201
駐車場
2021年11月19日、この日は平戸城下の街並みを歩いた。
そこから車で、平戸城(ひらどじょう)にやってきた。
駐車場は無料でとても広い。
最高点の標高: 17 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 16 m
累積標高(下り): 0 m
総所要時間: 00:04:52
北虎口門
まず案内看板でルートを確認。
石段を上がっていく。
北虎口門(きたこぐちもん)まで歩いてきた。
1707年に完成した門で、平戸城では唯一現存する門だ。
宝永4年(1707年)に完成した門で、平戸城では唯一現存する門が北虎口門。二の丸の搦手(からめて=裏側)を守る北虎口門ですが、山鹿流築城法で縄張りされた際に、隣接する地蔵坂櫓(昭和の復興)とともに北側に移動しています。乾櫓(いぬいやぐら)脇には脇虎口 という非常用の隠し門も設置され、防備が強化されています。
平戸城・北虎口門 から引用
平戸城は別名亀岡城(かめおかじょう)ともいう。
江戸時代は平戸藩がおかれ、1707年に平戸城が完成するまでは平戸の町に「中の館」と呼ばれる居館を構えていた。
明治の廃城令で取り壊されたが、1962年に復元され、日本100名城のひとつに選ばれている。
狸櫓(たぬきやぐら)は、平戸城では唯一現存する櫓だ。
平戸城に残る藩政時代の唯一の櫓です。正式名は多聞櫓ですが、修理の際に狸が小姓に化けて松浦藩主の寝床に来て、このまま棲まわせて欲しいと懇願したといい、以降狸櫓と呼ばれています。
平戸城内史跡 – 平戸城公式ウェブサイト から引用
床下に住み着いていた狸が藩主の枕元に来て、我ら一族を櫓に棲ませて頂きたい、そうすれば城を永代守護すると嘆願した、という伝説から、この名で呼ばれるようになったそうだ。
現存の狸櫓には、次の伝説が残っている。櫓の床下に狸が住みだした。天保初年(1830年頃)、櫓の修理のため床板を全て剥ぎ取った。するとある夜、小姓に化けた狸が藩主の寝所にやって来て、我ら一族を櫓に棲ませて頂きたい、そうすれば城を永代守護すると嘆願したので、翌日、床を元通りに戻してやったという。これ以後、この櫓は狸櫓と呼ばれるようになった。
平戸城 – Wikipedia から引用
本丸
本丸まで上がってきた。
1707年に完成するまで、平戸藩は城を持たない、いわゆる陣屋大名だった。
美しい天守閣は1962年に復元されたもので、日本100名城のひとつになっている。
入館料が520円だというので、中に入るのはやめた(苦笑)
それでも海を見渡せて、「海に浮かぶ城」の雰囲気は味わえた。
二の丸
二の丸に下りていく。
平戸城に来る前に見学したオランダ商館が見えている。
見奏櫓(けんそうやぐら)に入ってみた。
内部は少しオランダを意識した内装のようだ。
二の丸北部を守る見奏櫓は、「五段ハグチ」と呼ばれる急な崖の上にあります。現在は絶景を見ながら休憩できるスペースになっています。平戸の観光情報や関連施設についてもここで知ることができます。
平戸城内史跡 – 平戸城公式ウェブサイト から引用
1641年に長崎出島に移転するまで、平戸は唯一のオランダ貿易港として賑わっていた。
おばあはこれで満足です。
真っ白な天守閣を仰ぎ見る。
懐柔櫓(かいじゅうやぐら)
宿泊施設になっていて、ここで「城泊」できるそうだ。
二の丸東側の守りとして、白浜港を望む位置に建てられた櫓です。現在は日本100名城初の常設の宿泊施設「城泊」として、宿泊可能な施設になっています(有料予約制)。プライベートで平戸の海を独り占めできます。
平戸城内史跡 – 平戸城公式ウェブサイト から引用
神社
護国神社に参拝する。
亀岡神社に参拝する。
1880年に七郎神社・乙宮神社・八幡神社の3社と合祀して建てられたという。
中山愛子の像があった。
明治天皇の祖母で平戸出身だという。
車で先に進んだ。
最高点の標高: 44 m
最低点の標高: 16 m
累積標高(上り): 49 m
累積標高(下り): -49 m
総所要時間: 00:26:32