新川のおとしとは
新川のおとし(しんかわのおとし)とは、高知県高知市春野町森山(こうちけんこうちしはるのちょうもりやま)にある堰だ。
「おとし」とは川の高低差を調整するための堰のこと。
江戸時代に、野中兼山(のなかけんざん)によって築かれた。
まず兼山は、堤防の建設、平野部の開拓で米の増産を進め、杉・檜を中心とする森林資源の有効活用を行い藩の財源に充てる。物部川に築いた山田堰による灌漑などで開発した新田は7万5千石にも達したという。和紙の材料となる楮栽培や鰹節づくりも奨励した[3]。また、乱伐を避けるために輪伐制なども導入していた。築港も推し進め、藩内製品の諸国での販売を広める。また、身分にとらわれず郷士などを藩政改革にあてた。藩外からも植物、魚類などを輸入して藩内での育成に努めるるなどした。また、捕鯨、陶器、養蜂などの技術者の移入も進めて殖産興業に取り組み、専売制の強化なども行った。これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになる。
野中兼山 – Wikipediaから引用
仁淀川に、野中兼山が築いた八田堰(はたぜき)がある。
これができたため上流からの水運は弘岡井筋を通ることとなったのだが、新川との高低差がネックとなる。
そこで、この「新川のおとし」が作られた。
高知市指定史跡になっている。
野中兼山の遺構です。弘岡井筋は農業面の灌漑用水としてだけでなく、交通路としても利用されました。かつて、奥仁淀の村々の木材や薪炭などは仁淀川を下り、仁淀川河口から太平洋に出て、浦戸湾から城下へ運ばれていましたが、八田堰と弘岡井筋建設以降、上流からの物資は井筋を通り、新川川を経て浦戸湾へと入るようになりました。ただし、井筋と新川川には高低差があったため、新川川の入口に高低差を調節するための「おとし」がつくられました。
駐車場
この日は自宅を車で出発し、大五郎でランチを済ませた。
食後、新川のおとしにやってきた。
新川のおとし周辺には駐車場がないため、アジサイが咲く用水路沿いの広くなったところに車を停める。
この日は2019年6月4日で、アジサイがきれいに咲いていた。
ユリも咲いており、花を眺めながら歩いて行く。
涼月橋
やがて橋が見えてくる。
涼月橋(りょうげつばし)だ。
野中兼山の時代に木造で作られたが、1897年に純石造りで掛け替えられた。
橋長:9.0m
橋幅:2.7m
径間:1.9m×4
拱矢:0.55m
4連アーチ
架設:明治30年頃
涼月橋から引用
メガネ橋と呼ばれ、親しまれているそうだ。
橋名柱。
新川のおとし
涼月橋の少し下流が、新川のおとしだ。
仁淀川を筏に組んで運ばれた木材などは、ここで一旦バラバラにされて下流に流されたそうだ。
そのため多くの荷受人たちが行き交い、大変賑わったという。
新川町に住みついた水運関係者は、高知城下町商人と同様の特権を得て商業活動にいそしむようになった。上流から来た川舟や筏(いかだ)は町の水門までしか運航は認められていなかった。そこから長浜までの運航は、町のひらだ舟に任されていた。また、町のひらだ舟は上流への運航を自由にできる特権を保障されていた。この水路を運行できるひらだ舟は、九十三艘(そう)に限られていた。 このようにして、新川川を通じて上流の林産物が城下町に運ばれ、城下町の物資や水産物などは逆に、上流方面に運送されるようになった。江戸時代中期には、町の家数が六十余戸だったものが、幕末になると百八十余戸となり、三倍もの増加ぶりを示している。
高知市歴史散歩から引用
この後、すぐそばの春野神社に参拝した。
感想
今では静かな田園地帯だが、かつて水運の要衝として繁栄した痕跡が残る。
涼月橋など、その栄華の香りが感じられる優美な橋だ。
歴史に思いをはせながら、ゆっくり歩きたい。