清瀧寺とは
清瀧寺(きよたきじ)は、高知県土佐市高岡町丁(こうちけんとさしたかおかちょうてい)にある真言宗豊山派の寺だ。
四国八十八ヶ所霊場35番札所で、本尊は厄除薬師如来(やくよけやくしにょらい)
土佐市の北部。醫王山の中腹にあるが、ここは「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる高知県の紙どころ。その源をたどると弘法大師と因縁浅からぬ霊場であることがわかる。「みつまた」をさらし、和紙を漉く重要な水の源泉として、信仰の厚い札所である。
縁起によると、養老7年に行基菩薩が行脚していたところ、この地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。これを本尊として堂舎を建て、「影山密院・釋本寺」と名づけて開山したのが初めと伝えられている。弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810〜24)のころ。本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現に一七日の修法をした。満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという。そこで山号や院号、寺名を現在のように改め、霊場とした。この水は、麓の田畑を潤すことはもとより、「みつまた」をさらし、紙を漉くうえで重宝され、やがては土佐和紙産業をおこすことにも貢献している。
寺伝では、平城天皇(在位806〜09)の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、真如と名のった。真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。大師十大弟子の1人である。また、江戸時代には土佐藩主の帰依が厚く、寺領百石の寄進を受けるなど、七堂伽藍を備え、末寺10数ヶ寺をもつ土佐路の大寺であった。
厄除け祈願の名刹で、そのシンボルが本堂の屋根より高い大きな薬師如来像である。
街歩き
この日は国道56号線から徒歩で清瀧寺を目指した。
用水沿いに歩く。
クリスマスだというのに、柿の木に実が一杯ついたままだ。
今年は暖冬だと言うことがよく分かる。
野中兼山の頌徳碑。
今から400年ほど前の江戸時代初期には、台風による洪水などにより、見渡す限り荒涼とした大地が続き、当時のわが国において、土佐は辺境の貧しい国の一つに数えられていました。 そのような土佐を、信念をもって藩政の改革に取り組み、その一環としてかんがい用水と新田開発を強力に押し進めた人が、 野中兼山です。
松尾八幡宮
まず松尾八幡宮に参拝する。
一の鳥居に到着。
扁額。
長い参道が続く。
二の鳥居に到着。
もう門松が立てられていた。
扁額。
鳳凰の像。
石段も長い。
灯籠の蕎麦の楓は紅葉していた。
見下ろすと、とてもきれいだ。
狛犬。
手水舎。
以前は井戸だったのだろう。
拝殿。
内部はこんな感じ。
本殿。
その横に摂社。
へんろ道
松尾八幡宮の参拝を終え、清瀧寺に向かう。
住宅街を抜けていく。
椿の花がきれいだ。
山の中腹に清瀧寺が見える。
忠霊塔の脇を通る。
高知自動車道をくぐる。
このあたりはセイタカアワダチソウがまだ咲いていた。
清瀧寺の門が見えてきた。
ここには遍路休憩所がある。
ここから登りなので、一休みするのにちょうどいい。
六体地蔵をはじめ、石仏が並ぶ。
沿道では文旦の収穫真っ盛り。
車道から分かれたへんろ道に入る。
清瀧寺
仁王門に到着。
仁王像。
天井画。
仁王門からさらに石段を上がる。
本堂に到着。
手水舎。
参拝する。
本堂と大師堂は、回廊でつながっている。
大師堂。
びんずる様にもお願いする。
観音堂。
その奥に、大量の石仏。
水子地蔵。
薬師如来立像の下は、戒壇巡りになっている。
これが真っ暗で少々怖い。
おそるおそる入っていく。
頭をぶつけそうになりながらも、無事に参拝できた。
これでまた新年も健康で過ごせるだろう。
四国遍路は日本遺産だが、世界遺産になる日も近いだろう。
琴平神社
境内に鎮座する琴平神社にも参拝する。
石段を上がる。
社を保護するために、大屋根がつけられている。
この銀杏の木は、もう葉を落としていた。
ここからは仁淀川から太平洋まで見通せる。
納経所。
遍路休憩所。
参拝を終える。
下山
ここから、右の車道を下る。
こちらの道も、文旦畑が広がる。
紅葉もきれいだ。
民泊施設もできていた。
竹林を抜けていく。
高知自動車道をくぐる。
田園地帯を歩いて行く。
これで今回は終了だ。
感想
清瀧寺には毎年参拝しているが、これが今年最後の参拝になるだろう。
もう年の瀬だというのに紅葉が残っていたりして、暖冬なのを実感する。
やはり暑いときは暑く、寒いときは寒くあってほしいものだ。
最高点の標高: 144 m
最低点の標高: 3 m
累積標高(上り): 251 m
累積標高(下り): -247 m
総所要時間: 02:02:49