安倍文殊院とは
安倍文殊院(あべもんじゅいん)は、奈良県桜井市阿部(ならけんさくらいしあべ)にある華厳宗の寺だ。
京都府の切戸文殊、山形県の亀岡文殊とともに、日本三文殊に数えられる。
本尊は文殊菩薩。
孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立したのが「安倍山崇敬寺」(安倍寺)です。
安倍文殊院のご紹介 | 安倍文殊院 から引用
安倍文殊院
奈良県桜井市阿部645
0744-43-0002
駐車場
2022年7月16日、この日は佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)を歩いた。
宿泊していたホテルアラマンダを出発。
安倍文殊院(あべもんじゅいん)にやってきた。
駐車場はとても広い。
500円だった。
最高点の標高: 99 m
最低点の標高: 46 m
累積標高(上り): 64 m
累積標高(下り): -41 m
総所要時間: 01:03:22
入口
まず案内看板でルートを確認。
645年に安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が開基した。
日本一の文殊菩薩像があるという。
入試合格祈願や学業成就、厄除け魔除け祈願で賑わっている。
安倍家の菩提寺だ。
拝観料は1,200円。
西古墳
国指定特別史跡の「西古墳」
飛鳥時代の史跡で、30m前後の墳丘規模。
石室は全長12.4m。
7世紀中頃の古墳と推定されており、創建した阿倍倉梯麻呂の墓とされている。
日本三文殊のひとつ安倍文殊院の境内にある古墳時代終末期を代表する切石つくりの国特別史跡指定の古墳です「さくらい100選」には安倍文殊院として選ばれています。墳形は円墳又は方墳で本来は30m前後の墳丘規模と思われます。石室は両袖式横穴式(全長12.4m)で南に開口しています。長方形の切石(花崗岩製)を横積みし上の石の目地が下石の中央に来るように均等に割付られ天井石は1石で羨道部は板石を4枚並べ天井石は3枚構造です。
内部には、願かけ不動尊が納められている。
弘法大師が造られたと伝わる。
本堂
本堂に向かう。
1665年に建立された建物だ。
内部には、快慶作の木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像が安置されている。
落雁(らくがん)をもらった。
本尊は日本最大、1203年に快慶が作った文殊菩薩像だった。
国宝です。
御本尊は「三人寄れば文殊の智恵」の格言で有名な文殊菩薩で、日本最大(7m)、鎌倉時代・1203年に仏師・快慶によって造立されました。
安倍文殊院|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|桜井市|山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア|神社・仏閣|神社・仏閣 から引用
晴明堂
阿倍仲麻呂の句碑があった。
この先が、奥の院。
白山堂。
その右に「合格門」
階段を上がって、晴明堂に向かう。
入試合格祈願や学業成就の祈願で、2月、3月は大変な賑わいだという。
安倍晴明(あべのせいめい)は、陰陽師(おんみょうじ)として知られる。
陰陽師とは、日本古来律令制の下で中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮(おんみょうりょう)に属した官職の一つ。陰陽五行思想に基づいた陰陽道を駆使し、神意を占い人間が口に出して予言する占いの一種、占筮(せんぜい)及び地相などを担当する方技として配置された者のことです。
おばあは数年前に、ここに来たそうだ。
ラングドン・ウォーナー博士の供養塔が建っている。
アメリカ美術史家で、戦火から文化財が守られる手助けをしたとされる。
奈良や京都や鎌倉といった、日本の古都の文化財が守られたのはウォーナー博士のお蔭である。そんな感謝の気持ちから、このウォーナー塔は建てられました。
安倍晴明が天文観測をしたそうだ。
陰陽師のなかでも特に有名な安倍晴明も、そんな「天文博士」のひとり。彼はとても有能だったため、その子孫も代々陰陽師として活躍し、その家系はなんと明治時代になるまでつづきました。 当時の陰陽師たちが残した記録の一部は、実はいまの天文学の役にも立っています。たとえば、鎌倉時代の貴族・藤原定家は自身の日記『明月記』のなかで、陰陽師から聞いた話として、「平安時代、おうし座に突然明るい客星が現れた」と記しています。この記録のおかげで、「かに星雲」として知られる天体が、実は1000年前に起きた超新星爆発の跡だとわかりました。晴明をはじめとする陰陽師たちののこした記録は、1000年たったいまにも伝わり、研究にも生かされているのです。
清明堂に参拝する。
2004年に再建された。
車で先に進んだ。
最高点の標高: 103 m
最低点の標高: 93 m
累積標高(上り): 22 m
累積標高(下り): -22 m
総所要時間: 00:36:56