六体地蔵とは
六体地蔵(ろくたいじぞう)は、高知県高知市浦戸(こうちけんこうちしうらど)にある仏像だ。
関ヶ原の後、高知に入場した山内家に抵抗した一領具足(いちりょうぐそく)を祀っている。
関ヶ原の戦いの後、幕府により浦戸城の新領主・山内氏への明け渡しが求められた。その際、旧主のために一領具足が明け渡しに抵抗したのが浦戸一揆である。昭和14年12月、野市町(現香南市)の住職が、浦戸一揆で討ち取られた273名の一領具足を供養するために広く浄財を募り建立された。
若宮八幡宮
この日は自宅を車で出発し、リタでランチ。
食後、若宮八幡宮にやってきた。
駐車場はとても広い。
参道を進む。
ここは雪蹊寺や秦神社と一緒によく参拝している。
長宗我部元親が初陣の際に参拝したことで知られる。
文治元年3月、平氏を檀ノ浦に滅ぼした源頼朝公は、全国に守護・地頭を置き鎌倉幕府の基礎を固めました。同時に、祖父源為義公の冥福を祈り、源家の家運長久を願って京都六條の為義邸跡にあった六條左女牛若宮(ろくじょうさめうしのわかみや 六條左女牛八幡宮)に石清水八幡宮の御神霊を御勧請し、ここに新たに六條若宮八幡宮を御創建されました。
その際、土佐国吾川郡の南部一円を六條若宮の神領地として奉納せられ、神地鎮護の神として現在の地に御創建されたのが若宮八幡宮です。時に文治元年(1185年)12月30日のことでした。以上のことは、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に記されています。
若宮八幡宮について から引用
狛犬。
参拝する。
内部はこんな感じ。
摂社に向かう。
ここにあった「槍通す輪」がなくなっていたのは、新型コロナウイルスのせいだろうか。
境内社にも参拝する。
鎮守の森公園
参拝を終え、鎮守の森公園を歩く。
どろんこ祭りの田んぼの前を進む。
若宮八幡宮で行われる400年以上の歴史を持つ五穀豊穣,無病息災を祈る春祭り。山内家二代藩主忠義公の時代に始まったとされるほか,それより昔の長宗我部氏の時代に始まったとされるなど,起源には諸説があります。浴衣姿の女性が男性の顔に泥をぬり,泥をぬられた男性はその夏病気をしないといわれています。4月第一土曜日から3日間,長浜を中心に桂浜や高知の市内まで浴衣姿の女性が繰り出します。土佐の三大奇祭の一つに数えられています。
どろんこ祭り – 高知市公式ホームページ から引用
参道を進む。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の銅像に到着。
戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)の説明碑文。
この戦いで、長宗我部元親の長男信親(のぶちか)が戦死した。
戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)は、豊臣秀吉による九州平定の最中である天正14年12月12日(1587年1月20日)に、島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保が率いる豊臣勢の間で行なわれた戦い。この合戦は九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した。
戸次川の戦い – Wikipedia から引用
一の鳥居までやってきた。
桂浜花街道
太平洋に出て、海岸線を歩いて行く。
この日は小雨交じりで、海も少し荒れている。
この通りは、桂浜花街道(かつらはまはなかいどう)と呼ばれている。
桂浜花海道は「潤いとふれあいの場」そして「花と緑の憩いのスペース」を創設し、名勝桂浜を訪れる人々に高知の明るく美しいイメージをアピールしようと昭和63年から平成7年までに整備されたもので、延長2700mの花壇が特徴です。
この花海道では、花壇の花を管理する経費を、道路管理者だけでなく、24の企業・団体や多くの個人の方々にスポンサーとしてご負担いただいています。
太平洋を望む憩いの場所に花を咲かせて、観光客の方々をおもてなしする桂浜花海道の取り組みは観光客や利用されている方々から大変好評をいただいています。
桂浜花海道 | 高知県庁ホームページ から引用
太平洋も見える、美しい道だ。
宇賀神社
宇賀神社に到着。
参拝する。
花を見ながら、先に進んでいく。
この通りはいつも花が満開だ。
六体地蔵
六体地蔵に到着。
一領具足供養の碑が建立されている。
阿弥陀如来像を中心にして左右に3体ずつ仏像が並ぶ。
この六体地蔵は昭和14年12月、野市町の吉祥寺住職が一領具足の供養をするため、野村
茂久馬翁らの援助を受け、広く浄財を募り建立したということです。それぞれ「人間道」、「餓鬼道」、「畜生道」、「地獄道」、「天道」、「阿弥陀道」の六道をあらわし、
「地持地蔵尊」、「陀羅尼地蔵尊」、「法印地蔵尊」、「鶏亀地蔵尊」、「法性地蔵尊」、「宝性地蔵尊」
だそうです。
石丸神社(六体地蔵・一領具足供養の碑) から引用
由緒書き。
斬首された273名の一領具足の胴体が葬られたと伝わる石丸神社。
敗れた273名の首は塩漬けされ大坂に送られ、 胴体が葬られた塚にはのちに
石丸神社として祠が建てられました。
それがこの場所のようです。
五輪塔と忠魂不滅の碑。
鐘楼跡。
参拝を終え、先に進んでいく。
感想
平時は農民として働きつつ、有事には刀を取って戦った一領具足たち。
長宗我部氏から山内氏に主君が変わっても、小なりと言えども元の主君に領地を残そうと立ち向かったその姿は、忠義そのもの。
歴史の中に埋没しつつあるが、その深い忠義の思いは永遠だ。
最高点の標高: 25 m
最低点の標高: 6 m
累積標高(上り): 76 m
累積標高(下り): -76 m
総所要時間: 01:34:40