別所温泉とは
別所温泉(べっしょおんせん)は、長野県上田市別所温泉(ながのけんうえだしべっしょおんせん)にある温泉だ。
信州最古と伝わる温泉地で、日本武尊が7か所に温泉を開き「七苦離の温泉」と名付けたという伝説から「七久里の湯」とも呼ばれる。
清少納言の「枕草子」にある「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節の中の「七久里(ななくり)の湯」が別所温泉のことではないかという説もある。
木曽義仲の派兵により焼失したが、源頼朝、次いでに塩田北条氏によって再建されたことから「信州の鎌倉」と呼ばれている。
別所温泉は景行天皇の時代、日本武尊の東征の折りに発見されたといわれています。または平安時代(794年-1185年)中期の女流作家、清少納言によって書かれた「枕草子」にある「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節の中の「七久里の湯」が起源ではないかという説もあります。
「別所」という地名が初めて歴史に登場するのは13世紀であり、その由来は「将軍塚」で有名な平維茂(たいら の これもち)が戸隠の「活鬼紅葉」という鬼女の退治を北向観音に祈願して首尾よく退治に成功したため、この地に「別業」(現代の別荘に相当するもの)を建て、別所と呼んだところから来ているといわれています。
12世紀に入ると別所は木曽義仲(源 義仲)信州を平定するために派遣した軍勢によって火を放たれ、多くの寺院建築が灰になってしまいましたが、大悲殿ならびに安楽寺の八角三重の塔だけは焼失をまぬがれました。その後、焼失した別所の寺院は源頼朝、次いでに塩田北条氏によって再建されることとなりました。そして、この塩田北条氏の下でこの地は多いに栄えました。別所を含む塩田平が「信州の鎌倉」と称されたのはこのためです。
信州の鎌倉|別所温泉の歴史 から引用
駐車場
2021年10月1日、この日はステーキ宮上田店でランチを済ませた。
そこから車で、別所温泉にやってきた。
最高点の標高: 601 m
最低点の標高: 442 m
累積標高(上り): 304 m
累積標高(下り): -180 m
総所要時間: 02:29:01
別所温泉駅の前に駐車場がある。
当日無料でラッキー。
まず案内看板でルートを確認。
北向観音
まず北向観音(きたむきかんのん)にやってきた。
御嶽山登山の筋肉痛で、階段を下りると痛い(苦笑)
いかにも温泉街という風情がいい。
北向観音堂は本堂が北を向いていることから、名付けられた。
これは観世音菩薩出現の際、「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」というお告げによるものといわれている。
本堂が北を向いている寺は、全国的にも珍しいという。
厄除観音として知られる「北向観音堂」は、平安時代初期の天長2年(825年)比叡山延暦寺座主慈覚大師円仁により開創された霊場です。
安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられます。
寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲(=源 義仲、1154~1184年)の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが源頼朝(1147~1199年)の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました。
本堂が北を向いているのは、わが国でもほとんど例がないようです。その由来は、観世音菩薩出現の際、「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」というお告げによるものといわれています。
別所温泉の観光案内|神社仏閣 から引用
石垣の上に鎮座する。
梵鐘。
由緒書き。
本尊は千手観音菩薩で、厄除け観音として知られる。
内部はこんな感じ。
日本遺産に指定されている。
平安時代初期(825年)に慈覚大師が開基した。
札所観音堂。
愛染堂(あいぜんどう)
樹高22mという上田市指定天然記念物の愛染カツラがある。
樹齢1200年だという。
不動堂。
清水寺みたい。
温泉街
かしわや本店という素晴らしい旅館があった。
川口松太郎の小説「愛染かつら」は、ここに宿泊して執筆されたという。
創業百余年。美肌温泉と館内全て畳敷きの情緒漂う歴史感じるやすらぎの宿
その先に、大師湯(だいしゆ)がある。
慈覚大師が好んで入浴した温泉だという。
天長二年(825年、平安時代)比叡山延暦寺の座主円仁慈覚大師が北向観音堂建立のため当地に来錫の折、好んで入浴したので大師湯と名付けられました。
かつては北向山に参詣した籠の者が夜通し入れ替わり利用したので籠の湯ともいわれました。
昔、矢傷を負った雉子が湯あみして傷をいやしたので「雉子湯」と呼んだこともありました。
安楽寺開山樵谷、二代幼牛の両禅師の木像(重要文化財)が夜な夜な入浴されるので、尊貴を恐れた村人がついに木像の目玉を抜き取ったという話もこの大師湯にまつわる伝説です。
別所温泉の外湯めぐり(温泉銭湯) から引用
入浴料はなんと150円。
石湯。
「真田幸村公隠しの湯」の票石は池波正太郎氏の筆だという。
大河小説「真田太平記」には、別所の湯がしばしば登場する。
物語の仲で重要な位置を占める向井佐平次が真田幸村と初めて逢うのも、その幸村が女忍者お江(こう)と結ばれるのも別所の岩の間から湧きだす温泉の白い湯気の中だった。
そして、関ヶ原の合戦には真田の忍者草の者達が、別所の里に身を潜めて上田城に篭城する昌幸親子をじっと見守るのである。
別所の湯、それは真田氏にとって大切な隠し湯だった。
今も豊かに岩の間から湧きだす温泉、石湯。 その前に建つ「真田幸村公隠しの湯」の票石は真田太平記の作者、池波正太郎氏の筆である。
別所温泉の外湯めぐり(温泉銭湯) から引用
飲泉があり、硫黄の卵の臭いがした。
これは効きそう
雰囲気のある建物は、千と千尋の神隠しの油屋のモデルとされる柏屋別荘。
川端康成や北原白秋も宿泊した名店だが、現在は営業していないのが残念だ。
安楽寺
路地を進む。
安楽寺まで歩いてきた。
台風の余波で葉っぱが散っているね
安楽寺の由緒書き。
崇福山護国院安楽寺は824年に開山し、曹洞宗(そうとうしゅう)の寺では日本で最も古いという。
安楽寺はその禅宗としては、鎌倉の建長寺などと並んで日本では最も古い臨済禅宗寺院の一つです。
天正十六年(1588)ころ、高山順京が曹洞宗に改めました。
「建長(鎌倉の建長寺)と塩田(安楽寺)とは各々一刹により、或は百余衆或は五十衆、皆これ聚頭して仏法を学び、禅を学び、道を学ばんことを要す云々」これは大覚禅師語録(建長寺開山蘭渓道隆の遺書)の一節です。
これにより安楽寺は鎌倉時代中期すでに相当の規模をもった禅寺であり、信州学海の中心道場であったことがうかがわれます。
鎌倉北条氏の外護によって栄え、多くの学僧を育てていたこの寺も北条氏滅亡(1333年)後は、寺運も傾いて正確な記録も残りませんが国宝、重要文化財等数多くの鎌倉時代の文化遺産を蔵、信州最古の禅寺のおもかげを残しています。
別所温泉の観光案内|神社仏閣 から引用
趣のある参道。
山門。
高野槙の巨木。
鐘楼。
本堂。
本尊は釈迦如来。
内部はこんな感じ。
国宝の八角三重塔拝観受付までやってきた。
カメラのことを言われて撮影禁止なのかと思ったら、カメラの質問だった(笑)
13世紀末に建てられ、近世以前の八角塔としては日本に現存する唯一のものだという。
かなり登りそう(汗;)
鎌倉時代の建物だ。
説明看板。
石段を上ってきて息も絶え絶え(苦笑)
1277年の建立と推定されている。
おばあ疲れています
常楽寺
参拝を終え、常楽寺に向かう。
常楽寺(じょうらくじ)は天台宗の別格本山で、北向観音の本坊にあたる。
825年に開基された古刹だ。
1716年の建立。
常楽寺は北向観音の本坊であり、ご本尊は「妙観察智弥陀如来(みょうかんざっちみだにょらい)」。
常楽寺は北向観音堂が建立された天長二年(825年)、三楽寺の一つとして建立されました。
その後、正応五年(1292年)四月、信乃国(信濃国)塩田別所常楽寺で書写されたと記述のある「十不二門文心解)」が金沢文庫に遺されており、また、本堂裏の北向観音の霊像が出現した場所には、弘長二年(1262年)の刻銘のある石造多宝塔(重文)が保存されていて、鎌倉時代に天台教学の拠点として大いに栄えた常楽寺の歴史を証する貴重な文化財となっています。
別所温泉の観光案内|神社仏閣 から引用
本堂。
樹齢350年の御船の松。
入山料100円の小銭がないと騒ぐおばあ
本尊は妙観察智如来。
重要文化財の多宝塔に向かう。
苔むしている。
別所神社
参拝を終え、境内入り口にある別所神社に向かう。
重要文化財の本殿。
おばあは重要文化財より蜘蛛に大騒ぎ
ここからの展望は素晴らしい。
車で先に進んだ。
最高点の標高: 647 m
最低点の標高: 563 m
累積標高(上り): 217 m
累積標高(下り): -218 m
総所要時間: 01:16:46