野麦峠展望台とは
野麦峠(のむぎとうげ)展望台は、岐阜県高山市高根町野麦(ぎふけんたかやましたかねまちのむぎ)にある景勝地だ。
野麦峠展望台
〒509-3402 岐阜県高山市高根町野麦591
標高1672m!多くの女工の命を奪った野麦峠を歩いてみた!映画『あゝ野麦峠』の舞台:政井みねの碑を訪ねて【旅行VLOG、レビュー】飛騨と江戸を結ぶ主要街道の最大の難所!奈良時代から続く歴史の道!
野麦峠展望台
2024年9月7日、この日は野麦峠(のむぎとうげ)お助け小屋でランチを済ませた。
まず案内看板でルートを確認。
展望台まで10分ほどだという。
坂道を上がっていく。
平成9年に整備された。
野麦峠(のむぎとうげ)展望台は、岐阜県高山市高根町野麦(ぎふけんたかやましたかねまちのむぎ)にある景勝地だ。
以前、道の駅飛騨たかね工房に行った。
7分ほどで野麦峠展望台に到着。
巨大な観音像が設置されていた。
標高1672mの野麦峠は野麦街道最大の難所で、冬は積雪のため峠を越えることが困難となり、およそ10 kmの峠越えの旅程に1日を費やしたほど厳しい道のりであった。
女工哀史の歴史だ。
映画「あゝ野麦峠」のモデルになった政井みねの碑が建っていた。
結核になった政井みねは飛騨から迎えに来た兄の背中に負われて息を引き取った。
ああ、飛騨が見える。
それが政井みねの最期の言葉だった。
再現フィルム。
遊歩道
みねの碑を過ぎて歩いて行く。
下草をきれいに刈り取ってくれていてありがたい。
熊が怖いので、熊鈴を付けてきました。
分岐点まで歩いてきた。
この道が旧野麦街道。
野麦街道は奈良時代に信濃国と飛騨国を結ぶ官道として開かれたといわれている。
飛騨国高山と江戸を結ぶ道として江戸時代から利用されてきた。
信州側では一般に「ひだみち」とよばれた。
能登で取れたブリを飛騨を経由して信州へと運ぶ道筋であった。
日本の秘境100選の一つに選ばれている。
駐車場に出てきた。
かつて資料館「野麦峠の館」だった建物は閉鎖され、屋上の展望台だけ公開されている。
野麦峠の館は2022年3月31日をもって閉館とさせていただきます。
永らくのご愛顧、誠にありがとうございました。尚、展示物等は、野麦峠道路開通後、
お助け小屋に移動の予定となっております。
飛騨と江戸を結ぶ重要な街道だった。
ここから野麦集落までの4.5kmは江戸街道の当時のまま残っている。
政井みねの石像。
お助け小屋まで戻ってきた。
野麦の里公園
野麦峠から先も非常に険しい道が続く。
野麦の里公園にやってきた。
野麦の里公園
〒509-3402 岐阜県高山市高根町野麦366
トイレが設置されている。
案内看板。
野麦学舎という木造建築があるので見に来た。
野麦の里公園からは行けなさそうだった(苦笑)
1981年(昭和56年)まで高根小学校野麦分校だった建物だ。
2014年頃までは宿泊施設「野麦学舎」として使用されていたが、以後、閉鎖。 2021年(令和3年)3月 – 野麦学舎保存会、設立。
2022年(令和4年)6月 – 高山市より野麦学舎保存会へ譲渡。
2014年頃までは宿泊施設「野麦学舎」として使用されていた。
ここは旧野麦街道沿いの村。
この建物ではなかった(汗;)
野麦学舎は1874年(明治7年)に野麦学校として開校した。
高根中学校野麦分校を併設していた。
おじいが通っていた小学校もこんな感じだった。
1953年(昭和28年)に改築された。
現在は野麦学舎保存会が管理している。
残念ながら施錠されていた。
車で先に進んだ。