ラピュタンとは
ラピュタンは、高知県土佐市高岡町丙(こうちけんとさしたかおかちょうへい)にある喫茶店だ。
駐車場
2022年2月28日、この日は自宅を車で出発し、ラピュタンにやってきた。
既に駐車場は混み合っている。
日替わりランチ
この日は奥さんひとりだということで、時間がかかるそうだ。
この日の日替わりランチは、ツレは豚肉のエノキ巻き。
前回もこのメニューを頼んでいたのに(苦笑)
俺は赤魚のあんかけにした。
新川大師堂
食事を終え、車で新川大師堂(しんかわたいしどう)にやってきた。
新川大師堂は、高知県高知市春野町森山(こうちけんこうちしはるのちょうもりやま)にあるお堂だ。
春野十景になっている。
由緒書き。
西畑人形発祥の地
参拝を終え、仁淀川の河川敷に下りてきた。
仁淀川では、大きな鯉が泳いでいた。
菜の花が咲いている道を歩いて行く。
梅も満開。
西畑(さいばた)人形発祥の地の石碑。
西畑人形は1879年ごろにここでつくられた人形で、その人形芝居は「デコ芝居」といわれ、関西や九州へ巡業に行くなど人気を博したという。
西畑人形は、明治12(1879)年ごろ、当時の西畑村でつくられた人形です。土佐では人形を「デコ」といい、人形芝居を「デコ芝居」といいました。 この人形は一人使いで、「指人形の差し込み式と差し人形(棒使い人形)」という形式ですが、その特徴は、「差し金」とよばれる細い針金のような棒を人形の手につけ、それで人形の腕を操作することです。この差し金使いの技法は独自に編み出されたもので、これによってあたかも人間のように動くその精巧さに、「空気人形」などと賛辞が寄せられたといいます。
ふなとトンネル
ふなとトンネルまで歩いてきた。
トンネルを抜けると、そこはお墓だった。
レモンの木があった。
種間寺
四国八十八ヶ所霊場第34番札所の種間寺(たねまじ)まで歩いてきた。
ここの駐車場はとても広い。
ここに歩いて来るのは珍しいよね。
本尊は薬師如来(やくしにょらい)
大師堂に向かう。
参拝を終え、恒例のミカンタイム。
甲殿川
甲殿川(こうどのがわ)沿いに歩いて行く。
野中兼山(のなかけんざん)の銅像があった。
野中兼山は江戸時代に仁淀川から用水を引いて、石高を大きく伸ばした功績者だ。
兼山は今から340年前、土佐二代藩主、山内忠義の家老職として仕え、その職は約30年に及びました。その間、土木工事、港湾の整備、産業の奨励、用水路の開発など多岐にわたり、不朽の名を残しました。
「八田堰」は兼山が最も油の乗り切った中期の時代で、慶安元(1648)年に着手し、6年の歳月を費やして完成しました。当時仁淀川に堰をして用水路を造るなどはまさに画期的な大事業でありました。
前回ここを歩いた時は雑草が生い茂っていて歩けなかったが、今回はきれいに伐採されていた。
弘岡学苑の址の石碑を通過。
謎のモニュメント発見(笑)
新川のおとし
恵比須神社(えびすじんじゃ)まで歩いてきた。
その先に、新川(しんかわ)のおとしがある。
「おとし」とは川の高低差を調整するための堰のことだ。
仁淀川を筏に組んで運ばれた木材などは、ここで一旦バラバラにされて下流に流されたそうだ。
そのため多くの荷受人たちが行き交い、大変賑わったという。
新川町に住みついた水運関係者は、高知城下町商人と同様の特権を得て商業活動にいそしむようになった。上流から来た川舟や筏(いかだ)は町の水門までしか運航は認められていなかった。そこから長浜までの運航は、町のひらだ舟に任されていた。また、町のひらだ舟は上流への運航を自由にできる特権を保障されていた。この水路を運行できるひらだ舟は、九十三艘(そう)に限られていた。 このようにして、新川川を通じて上流の林産物が城下町に運ばれ、城下町の物資や水産物などは逆に、上流方面に運送されるようになった。江戸時代中期には、町の家数が六十余戸だったものが、幕末になると百八十余戸となり、三倍もの増加ぶりを示している。
高知市歴史散歩 から引用
新川のおとしの説明看板。
涼月橋(りょうげつばし)という橋が1648年に架けられた。
野中兼山の時代に木造で作られたが、1897年に純石造りで掛け替えられメガネ橋と呼ばれ、親しまれているそうだ。
その先に、春野神社(はるのじんじゃ)が鎮座する。
春野神社の祭神は、野中兼山(のなかけんざん)だ。
活躍しすぎた人物だけに妬まれることも多く、晩年は失脚してしまう。
当時は土佐藩に遠慮し、「野中」の名を避け、春野神社と称した。
新川大師堂に戻ってきた。
最高点の標高: 22 m
最低点の標高: 4 m
累積標高(上り): 64 m
累積標高(下り): -64 m
総所要時間: 02:25:31