宮田宿とは
宮田宿(みやだじゅく)は長野県上伊那郡宮田村(ながのけんかみいなぐんみやだむら)にある三州街道の宿場町だ。
宮田宿は飯田藩主が参勤交代で江戸に向かう時、この地を宿泊地としたことや、伊那谷一の荒れ川太田切川を南に控えていたことから、伊那街道の要衝として賑わいました。
江戸時代の旅籠が残る三州街道の宿場町を巡る【宮田宿散策】神輿を階段から落とす!?津島神社の奇祭とは?【旅行VLOG、レビュー】カフェチェレステで絶品コーヒーとカヌレ!宮田村のおしゃれカフェも紹介!
史跡猪垣
2025年10月12日、この日は長野県上伊那郡宮田村(ながのけんかみいなぐんみやだむら)にある旧新井家住宅を見学した。
宮田宿本陣 旧新井家住宅
〒399-4301 長野県上伊那郡宮田村新田区1926
0265-85-2314
見学を終え歩いて行く。
のどかな田園地帯。
石仏と歌碑が建っていた。
達筆すぎて読めない(苦笑)
奈良時代に光仁天皇の第3皇子の他戸親王がこの地に住んでいた。
親王と妃の梅の局が詠んだ歌が刻まれている。
史跡猪垣まで歩いてきた。
江戸時代に猪の被害を防ぐため延長6kmも垣根が構築されていたそうだ。
江戸時代、猪、鹿(通称しし)のうち、特に猪による農作物の被害を防ぐため、西山山麓に長大チョウダイな猪垣が構築コウチクされた。
キャンプ場方面に歩いて行くのを嫌がるおばあ。
熊を怖がるおばあ。
高速道路より町側に来たので安心しているおばあ。
真慶寺
真慶寺(しんけいじ)にやってきた。
曹洞宗の寺だ。
真慶寺
〒399-4301 長野県上伊那郡宮田村北割1013
0265-85-2993
凄く大きなお寺だね。
源洞稲荷尊は平成2年に釈迦堂を遷座し豊川稲荷から再勧進した。
さすが禅寺ですね。
百かんのんさまを巡ることができる。
歩いて来るときに黄金に輝く巨大な観音像が見えた。
ここを進むと霊苑の観音像に続いているのだろう。
元宮神社
すぐ隣りに元宮神社が鎮座する。
元宮神社
〒399-4301 長野県上伊那郡宮田村北割区1273
明治41年(1908)、この地にあった諏訪社に、八幡社、天神社、天狗天白社、山神社を合祀して新たに発足した。
この辺りでは珍しい杉並木の参道がある。
赤い屋根の建物は社務所。
諏訪社、八幡社、山神社の社殿が、そのまま覆屋の中に納められている。
宮田村文化財マップの表紙になっている。
1908年に新しい神社として出発した。
社務所は元々は舞台だった。
1866年頃に建てられ浄瑠璃語りの入った芝居などが上演された。
幕末の1866年、慶応2年ころに西山から伐り出した巨木によって建てられた舞台は、建物の幅8間8寸、奥行4間寄棟造りで、前面の屋根裾が切り下されている。はじめは茅葺きで回り舞台でしたが、現在は屋根の茅の上にトタンをかぶせ、舞台の奥の半分は畳を敷くなどして社務所に改装されています。袖の間の配置から、浄瑠璃語りの入った芝居も上演されたようです。
行政情報 | 宮田村公式サイト から引用
立派な神社ね。
諏訪社に、八幡社、天神社、天狗天白社、山神社を合祀した。
根っこが合体している。
もと諏訪神社の参道の両側に並木として植えられた古木。
宮田宿
蕎麦が実っていた。
NHKがあるがニッパツだ。
商店街まで歩いてきた。
喜多屋新井家住宅主屋がある。
江戸時代後期の建物。
喜多屋新井家は、伊那街道宮田宿北端入口部の要所に位置し、江戸時代には荷物の集積・搬送を商う荷問屋のほか、質屋、藍葉商も営む有力商家の一軒でした。
行政情報 | 宮田村公式サイト から引用
喜多屋新井家住宅主屋
〒399-4301 長野県上伊那郡宮田村3285−19
0265-85-3181
国指定登録有形文化財。
伊那街道宮田宿北端入口部の要所に位置し、江戸時代には荷物の集積・搬送を商う荷問屋のほか、質屋、藍葉商も営む有力商家。
この並びに古い建物が残っている。
旧井桁屋新井家住宅。
本陣の新井家、北隣の喜多屋新井家と縁戚関係にあり、江戸時代には旅籠(宿屋)を営んでいた。
井桁屋新井家は、本陣の新井家、北隣の喜多屋新井家と縁戚関係にあり、共に宿場の開設にも関わったとされる有力商家の一軒です。
行政情報 | 宮田村公式サイト から引用
恵比須屋原家住宅。
江戸後期の18世紀後半の築とされ、宮田宿内で建てられた場所にそのまま残されているものとしては最古の建物と思われる。
江戸時代には旅籠(宿屋)を営んでいた。
国指定登録有形文化財。
江戸時代には旅籠(宿屋)を営んでおり、昭和39(1964)年頃までは下宿屋として部屋を貸していました。明治の初めには、町役人(名主)も務めています。
行政情報 | 宮田村公式サイト から引用
宮田郵便取扱所跡。
結構残ってるね。
仲町ということはこの辺りが中心だったわけね。
宮田宿(みやだじゅく)は三州街道の宿場町だった。
三州街道は塩尻市を起点とし飯田市を通り三州(三河)の岡崎で東海道に合流する重要な道だった。
東山道の宮田駅が設置された場所で江戸時代に入ると宿場町として整備された。
新しい建物のようだがなまこ塀の外観にしている。
「梅が里」とはさっき通ってきた歌碑の他戸親王妃の梅の局のことのようだ。
正木屋酒店。
現在も酒屋として営業中。
京口屋墨矢家住宅。
嘉永年間(1848-54)には旅籠を営んでいたという記録が残っている。
現在の建物は明治23(1890)年頃の建築。
京口屋は江戸時代の末期、嘉永年間(1848-54)には旅籠を営んでいたという記録が残っています。
行政情報 | 宮田村公式サイト から引用
正木屋山浦家住宅。
文政年間(1818~1830)に酒造を始めた。
国指定登録有形文化財。
正木屋山浦家は江戸時代後期、文政年間(1818~1830)に酒造を始め、明治の初めには高遠藩全域でも有数の酒造米石高を扱う有力商家の一軒でした。
行政情報 | 宮田村公式サイト から引用
「仲町モール」という商店街だ。
商店街は「宮田市」の日は歩行者天国になる。
商店街も生き残ってるよね。
津島神社
津島神社まで歩いてきた。
江戸時代の1776年(安永5年)の古文書が確認されている古社だ。
津島神社
3314, 3314 町 宮田村 上伊那郡 長野県 399-4301
元々は天王社といい宮田宿の氏神だった。
牛頭天王と秋葉大権現を祀っていた。
明治の神仏分離令で牛頭天王は素戔嗚尊へ、秋葉大権現は軻遇突智命へと読み替えられた。
神社の名称も天王社から津島社(津島神社)に改められた。
「従是北高遠領」の碑がある。
文政10年(1827年)に作られたが幕府の命で埋められていた。
けれども、すでにできあがっていた碑を建てる前に、念のため幕府に伺いを立てたところ、石製に替えるのは勝手だけれど、同じ村にありながら領主を異にする土地や家があるところで農民をまどわすことになるから、碑面の「高遠領」という文字はいけないとされ、結局建てることができなくなってしまいました。
行政情報 | 宮田村公式サイト から引用
祇園祭は神輿を階段から落として壊す奇祭として有名。
素戔嗚尊のご神体を乗せてきおい巡ったおみこしは、神社手前でご神体を降ろしてから階段で幾度も投げ落とし、真柱一本になるまで打ち壊される。おみこしの毀れ(破片)を屋根へ投げ上げておくと(または神棚へ上げておくと)、災厄除去・商売繁盛等のご利益があると信じられており、近郷近在から集まった多くの人々で賑わう。
水無神社(すいむじんじゃ)のようだ。
牛頭天王と秋葉大権現を祀っていた。
明治の神仏分離令で牛頭天王は素戔嗚尊へ、秋葉大権現は軻遇突智命へと読み替えられた。
神社の名称も天王社から津島社(津島神社)に改められた。
チェレステ
カフェ&バー チェレステにやってきた。
宮田村 チェレステ
〒399-4301 長野県上伊那郡宮田村3378−1
0265-85-5108
メニューはこんな感じ。
水はセルフサービス。
店の奥は靴を脱いでくつろげるスペースになっている。
テイクアウトのお菓子を販売している。
窓側のテーブル席をゲット。
何店舗か入っている長屋形式の建物。
トイレはとてもきれいだ。
おじいはアイスコーヒーおばあはアイスティー。
カヌレというフランスの伝統的な焼き菓子を頼んでみた。
Wagayaという福祉施設が運営しているようだ。
固いそうです。
中はしっとり。
なかなか切れない。
分解したやつがハート型になりましたよ。
おじいとおばあにピッタリだわ。
本当モチモチ。
透明な2重になった断熱コップなのがうれしい。
アイスコーヒーはとてもおいしい。
作り置きのところが多いがドリップして淹れていた。
評価星5つだ。
小田切川
小田切川が流れている。
川沿いに歩いて行く。
小さな川だが一級河川。
石碑がある。
中央アルプスから流れてくる小田切川と太田切川は暴れ川として住民を悩ませてきた。
コーヒーを買ったセブンイレブンまで戻ってきた。
無料gpxファイルのダウンロードはこちら /wp-content/uploads/gpx/workout-walking-20251012.gpx
宮田宿は飯田藩主が参勤交代で江戸に向かう時、この地を宿泊地としたことや、伊那谷一の荒れ川太田切川を南に控えていたことから、伊那街道の要衝として賑わいました。
幕末の1866年、慶応2年ころに西山から伐り出した巨木によって建てられた舞台は、建物の幅8間8寸、奥行4間寄棟造りで、前面の屋根裾が切り下されている。はじめは茅葺きで回り舞台でしたが、現在は屋根の茅の上にトタンをかぶせ、舞台の奥の半分は畳を敷くなどして社務所に改装されています。袖の間の配置から、浄瑠璃語りの入った芝居も上演されたようです。
喜多屋新井家は、伊那街道宮田宿北端入口部の要所に位置し、江戸時代には荷物の集積・搬送を商う荷問屋のほか、質屋、藍葉商も営む有力商家の一軒でした。
井桁屋新井家は、本陣の新井家、北隣の喜多屋新井家と縁戚関係にあり、共に宿場の開設にも関わったとされる有力商家の一軒です。
江戸時代には旅籠(宿屋)を営んでおり、昭和39(1964)年頃までは下宿屋として部屋を貸していました。明治の初めには、町役人(名主)も務めています。
京口屋は江戸時代の末期、嘉永年間(1848-54)には旅籠を営んでいたという記録が残っています。
正木屋山浦家は江戸時代後期、文政年間(1818~1830)に酒造を始め、明治の初めには高遠藩全域でも有数の酒造米石高を扱う有力商家の一軒でした。
けれども、すでにできあがっていた碑を建てる前に、念のため幕府に伺いを立てたところ、石製に替えるのは勝手だけれど、同じ村にありながら領主を異にする土地や家があるところで農民をまどわすことになるから、碑面の「高遠領」という文字はいけないとされ、結局建てることができなくなってしまいました。
素戔嗚尊のご神体を乗せてきおい巡ったおみこしは、神社手前でご神体を降ろしてから階段で幾度も投げ落とし、真柱一本になるまで打ち壊される。おみこしの毀れ(破片)を屋根へ投げ上げておくと(または神棚へ上げておくと)、災厄除去・商売繁盛等のご利益があると信じられており、近郷近在から集まった多くの人々で賑わう。