香園寺とは
栴檀山教王院香園寺(せんだんさんきょうおういんこうおんじ)は、愛媛県西条市小松町南川甲(えひめけんさいじょうしこまつちょうみなみがわこう)にある真言宗御室派の寺だ。
四国八十八ヶ所霊場第61番札所で、本尊は大日如来(だいにちにょらい)
香園寺は、聖徳太子(574~622)が第31代用明天皇の病気平穏を祈願して創建したと伝わっています。
夢の中に、七彩の雲と天より降りた金の衣を着た白髪の老翁があらわれ、「二名の島(現在の四国)に霊地あり。梵舎一宇を建立せば病脳忽ち平癒すべし。」とお告げを残しました。
聖徳太子はその命を受けてこの地に渡り、霊地を探しました。林の中で一夜を過ごした明け方、金の衣を着た白髪の老翁が霊鳥に乗って現れ「仏法有縁の霊境なり。(ここが仏道に深い縁のある神聖な場所である)」と告げました。よってここに七堂伽藍を建立しました。竣工の折、この老翁が再び現れ、一七日間御堂の中にこもって本尊を安置しました。このお陰で天皇のご病気は治り、当山は「教王院」の山号を賜り、祈願寺とされました。
四国第六十一番霊場|香園寺|子安大師 から引用
聖徳太子が開基した古刹で、弘法大師が身重の妊婦が苦しんでいるのを見て栴檀の香を焚いて加持、祈祷をしたところ無事出産したことから、栴檀山と号する。
こうしたことから安産、子育て祈願の寺として、崇敬を集めている。
弘法大師が訪れたのは大同年間(806〜10)であった。ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持、祈祷をした。すると婦人は元気な男子を無事に出産した。これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する。以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが「天正の兵火」で焼失、寺運は明治・大正になって復興している。明治36年に晋山した山岡瑞園大和尚により、大正3年に本堂を再興し、同7年には「子安講」を創始して、全国の行脚はもとより、東南アジアやアメリカまで足を延ばし、講員の拡大と寺の隆盛に尽力している。
駐車場
2020年12月10日、この日はno1でランチを済ませた。
そこから車で、香園寺の駐車場までやってきた。
駐車場はとても広い。
境内
紅葉がとてもきれいだ。
新築中なのか、納経所はプレハブだった。
本堂はまるでビルのような、近代的な建物。
外階段を使って2階から本堂に入る。
参拝
内部は靴を脱いで入る。
内部はまるで体育館のような、大きな空間になっている。
金ぴかの巨大なご本尊。
大師堂も兼ねている。
三嶋神社
参拝を終え、三嶋神社(みしまじんじゃ)に歩いて行く。
いつもは国道側から参拝するのだが、今回は香園寺に続く裏参道と思われる道から進む。
三嶋神社は712年に勧進された、古くからある神社だ。
元明天皇の和銅5年(712年)8月23日、勅詔によって国司河野伊予守越智宿禰玉興、玉澄が井出郷の総鎮守として大山祇神社より勧請された古社で(一書に曰く聖武天皇の御宇天平年中河野益雄御勧請とも云)国司領主の崇敬厚く、河野家より境内八町四面の永代赦免状と寄附状の朱印があった。
後に井河神を開発の守護神として合祀し、その後、寛永15年(1638年)小松藩主一柳直頼公が入封して本殿再建し、歴代の藩主も社殿修覆、領内主席神社として、参勤交代の節は道中安全祈願を行った。嘉永7年(1854年)にこの船山に遷座され、頂上に祀られし船山八幡宮を本社に合祀し、明治5年村社となり、明治28年1月31日郷社に列格した。
三嶋神社 « 愛媛県神社庁 から引用
この山道は舟山古墳の上を通っている。
新しい社ができていた。
本殿まで歩いてきた。
拝殿に回る。
拝殿には、パンフレットを置いてあった。
表参道も、紅葉が盛りだ。
参拝を終え、先に進んだ。
最高点の標高: 34 m
最低点の標高: 9 m
累積標高(上り): 183 m
累積標高(下り): -179 m
総所要時間: 01:49:30