ラピュタン
2023年3月5日、この日は自宅を車で出発し、ラピュタンにやってきた。
ラピュタン
高知県土佐市高岡町丙359−5
088-852-5919
店内はこんな感じ。
一番奥のテーブル席をゲット。
ここの日替わりランチは、4種類から選べる。
おじいは豚の生姜焼き。
みそ汁ではなくツガニ汁なのが嬉しい。
ごはんは男性は大きめ。
おばあは鮭の大根おろしがけ。
結構なボリュームがある。
味が濃くてごはんがすすみそうです。
コーヒー付き。
新川川公園
食事を終え、車で新川川公園(しんかわがわこうえん)にやってきた。
新川川公園
高知県高知市春野町東諸木2900−9
ここは太平洋にほど近い場所だ。
ここから歩いて行く。
東諸木八幡宮御旅所
東諸木八幡宮御旅所まで歩いてきた。
東諸木八幡宮御旅所
高知県高知市春野町東諸木
唐音の切抜
唐音の切抜(からとのきりぬき)まで歩いてきた。
野中兼山(のなかけんざん)が江戸時代に築いたものだ。
新川川と浦戸湾を結ぶ水路として開発され、仁淀川流域と高知城下町とが内陸水路によって結ばれ、産業が発展した。
1648年より5年の歳月を費やして完成した。
長さ90m、高さ27m、幅12m。
竃土神社
竃土神社(かまどじんじゃ)まで歩いてきた。
竃土神社に参拝する。
ご神木はクスノキ。
地主神社
その先に、地主神社(じしゅじんじゃ)が鎮座する。
地主神社のご神木はスダジイ。
雪蹊寺
雪蹊寺(せっけいじ)に到着。
四国八十八ヶ所霊場第33番札所だ。
弘法大師の開基で、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の法号にちなみ雪蹊寺と改称された。
桜が咲いていた。
「南学発祥の道場」といわれ、天質和尚が朱子学南学派の祖として活躍した。
本尊は薬師如来(やくしにょらい)
高福山 幸福院 雪蹊寺(こうふくざん こうふくいん せっけいじ)といい、臨済宗妙心寺派の寺だ。
大師堂に参拝する。
秦神社
すぐ隣が、秦神社(はだじんじゃ)だ。
四国を統一した戦国武将の長宗我部元親を祭神とする。
明治の廃仏毀釈により雪蹊寺が一時廃寺となったため、1871年に建立された。
ここは長浜城趾(ながはまじょうし)だ。
元は本山氏(もとやまし)の居城だったが、戸ノ本(とのもと)の戦いで長宗我部国親(くにちか)が攻めた。
この時に当時「姫和子」と呼ばれていた元親も参加し、これが彼の初陣となる。
「姫和子」と呼ばれていた元親は、このとき槍の使い方もまだ知らず、重臣の秦泉寺豊後に「槍というものは、敵の目を突くものと心得られよ」と教えられての出陣だった。この初陣で20騎ばかりの手勢を引き連れて奮戦し、本山勢を打ち破るという、誰も予想をしなかった戦果を挙げ、後には「土佐の出来人」「鬼和子」と呼ばれる武将の片鱗を見せた。
戸ノ本古戦場 – 高知市公式ホームページ から引用
祭神は長宗我部元親だ。
拝殿内部はこんな感じ。
長宗我部盛親(もりちか)慰霊の碑に向かう。
大坂夏の陣で処刑された。
『秦』の名は、長宗我部氏の先祖が「秦」姓であったことに由来する。
若宮八幡宮
若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)まで歩いてきた。
駐車場はとても広い。
若宮八幡宮は、長宗我部元親が初陣の前に戦勝祈願した神社だ。
若宮八幡宮の由緒書き。
祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、高龗神(たかおかみのかみ)
長宗我部元親の嫡男である信親(のぶちか)が太閤秀吉の命で九州に出陣する際、この鳥居に軍旗が引っかかった。
不吉だと言われたが、そのまま出兵した。
戸次川(へつぎがわ)の戦いで信親が戦死したため、不吉な鳥居として海に流してしまった。
長年鳥居のない神社だったが、慶応地震で礎石が浮き出したことから、神意として再建された。
雛人形が展示されていた。
社殿は出蜻蛉式と呼ばれるトンボ型をしている。
トンボは勝虫ともいわれ、戦には縁起のよい虫とされた。
トンボは一名、勝虫ともいわれ、戦には縁起のよい虫とされました。神社の
本殿をしっぽに見立て、トンボが飛び立とうとしている姿になっている建築
様式で、元親公が御定めになられました。
若宮八幡宮について から引用
新型コロナウイルス以前は、拝殿の横に「槍通す輪」があった。
長宗我部元親が槍を練習したと言うことで、努力を続ける「やり通す」ご利益があるとされた。
天神宮。
参道には「どろんこ祭り」で使われる田んぼがある。
「顔に泥を塗る」と無病息災になるとされる、奇祭だ。
長宗我部元親の銅像まで歩いてきた。
1999年に建立された。
高知海岸
太平洋まで歩いてきた。
ここから海岸線を歩いて行く。
最高点の標高: 24 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 65 m
累積標高(下り): -65 m
総所要時間: 02:39:32