永渕神社とは
永渕神社(ながぶちじんじゃ)は、高知県長岡郡大豊町永渕(こうちけんながおかぐんおおとよちょうながぶち)にある神社だ。
1000年以上続く永渕神楽で知られる。
国指定の重要無形民俗文化財だ。
千年以上前からある、岩原・永渕神楽。岩原神楽は、その年に担当になった個人の家に、永渕神楽は永渕神社にそれぞれ「祷屋(とうや)」を立て、神主を招いて祭りをし、酒宴を開きます。
そして、「散華」と称する六根清浄の行をおこない12月の月歌を歌い、時には乱舞し、 神楽を舞います。これは県下的にも他に類例を見ない貴重なものです。楽器は大太鼓と鉦拍子を使います。
則倉佐仲が京都から逃れてきた際に伝えたと伝わる。
永渕神楽についてはその昔、戦乱に敗れた則倉佐仲というものが京都から讃岐・阿波を 経てこの地に入り定住して伝えたとの説がある。この神楽も、前記のとおり岩原神楽と同種同系のものであるので両者を区別せずこれを一括して岩原永渕神楽と称する。
岩原・永渕神楽(無形)|大豊町から引用
またここでは、百手(ももて)が開かれる。
正月や春祭などに行なわれる的射(まとい)の行事を、香川県や愛媛県その他でいう。百手祭。
紺袴、白の上衣といういでたちで弓を引く。
百手とは、弓術で、200本の矢を100回に分けて射ることで、甲乙2本の矢を一手とします。
大豊町には、代表的な百手として「桃原百手」「川戸百手」「永渕百手」の3つが伝承されています。
「桃原百手」は熊野十二所神社で古式ゆかしく羽織、袴の装束で行われます。
「川戸百手」は、大豊の西峰以外の百手はほとんど西的であるなかで、ここの矢の的は東的になっています。これは、祭神が宇佐八幡宮の分霊を祀っているため九州本社の西方向を避けて東的にしたといわれ、400年以上の歴史を持っています。
一方、永渕神社の永渕百手は、総奉行は羽織、袴を着用しますが、射場の服装は紺袴、白の上衣といういでたちで行う素朴な百手です。
しかし過疎化が進み、射手も激減したそうだ。
午前10時頃から、百手のために、次々と裃姿の弓の射手が集まってきます。
以前は12人の射手が1008本の矢を射たそうですが、人が足りないのか、今は8人になっています。
すぐ近くでもそれぞれに扮装
射手のほかに、記録係、審判係、太鼓係がいます。
見事的中したら太鼓が打ち鳴らされます。
永渕神社祭から引用
駐車場
この日は自宅を車で出発し、永渕神社にやってきた。
国道32号線から山を登ってくる。
この道がビックリするほど狭い。
すれ違えないくらいの道を、随分上ってきた。
不安になりながらも、なんとか永渕神社に到着だ。
境内に、車を数台停められるスペースがある。
境内
山の斜面にご神木が立つ。
巨木だ。
洞は、焼け焦げた跡がある。
落雷があったためだ。
4~5年前に雷の直撃を受けて火柱となり地元の消防団がなんとか消化した事がありました。
燃えて炭化した表面は痛々しくそれでも枯れずに生きているのは驚きです。
公徳碑。
永渕神楽が無形民俗文化財に指定された記念碑。
昭和55年と刻まれている。
鳥居。
コンクリート製だ。
狛犬。
参拝
拝殿。
彫刻されているのは、猫だろうか。
扁額。
内部はこんな感じ。
本殿は完全に囲われている。
反対側。
摂社。
内部はこんな感じ。
坂の上から見下ろしてみた。
お堂
永渕神社の隣りに、お堂が建つ。
地蔵堂だ。
扁額。
内部はこんな感じ。
参拝を終え、永渕食堂Shantiに向かった。
https://niyodogawa.org/blog/outdoor/food/14197/
感想
永渕地区は過疎化が進む高知県でも、屈指の人口過疎地域だ。
それでも、境内は非常にきれいに清掃されていた。
氏子の信心の厚さを感じる。
ご神木も、見事だ。
落雷にも負けず屹立する姿は、とても凜々しい。
近くに来たら、ぜひ参拝したい。