木曽福島宿とは
木曽福島宿(きそふくしまじゅく)は、長野県木曽郡木曽町(ながのけんきそぐんきそまち)にある旧中山道の宿場町だ。
江戸時代には福島関所が設けられ、大規模の宿場として発展していた。
福島宿は上松宿まで2里14町40間、宿の延長は3町55間。永禄年間には宿として利用されていたと思われます。
戦国時代には領主木曽氏の城下町として、江戸時代には木曽代官山村氏の陣屋町として栄えました。
また四大関所の一つ福島関所が設けられたため、規模の大きい宿場として発展していました。現在の状況
宿場であった上町・下町は昭和2年の大火で焼失し、現在では古い建物は残されていませんが、地形や道路から往時をしのぶことができます。また、上之段地区には江戸時代末期の建造物が所々残っており、往時の面影をとどめています。
宿の江戸方入口にある福島関所は、昭和50年に発掘調査が実施され、戦国時代の遺構が発掘されました。現在は関所資料館が併設され、一般公開されています。
福島宿 から引用
大手橋
2021年7月7日、この日は奈良井宿を観光してきた。
そこから車で、木曽福島宿にやってきた。
最高点の標高: 1006 m
最低点の標高: 755 m
累積標高(上り): 156 m
累積標高(下り): -331 m
総所要時間: 00:47:11
この日はここで宿泊するので、ホテルにチェックインしてから街歩きに出発。
大手橋を渡る。
世界初の鉄筋コンクリートローゼ橋だそうだ。
大手橋(おおてばし)は、長野県木曽郡木曽町の木曽川に架かる木曽町道の橋長34.3 m(メートル)のローゼ橋である。世界で初めて架橋された鉄筋コンクリートローゼ橋である。
橋から、この日宿泊する蔦屋が見える。
今の時期だからこそ
山村代官屋敷
山村代官屋敷にやってきた。
山村家は、江戸時代を通じて木曽谷の支配と福島関所の関守を世襲し、かつては広大な邸宅を構えていました。現在は、享保年間以降に再建された下屋敷の一部と、築山泉水式の庭園が残り、山村家ゆかりの書画や調度品、復元された饗応料理のレプリカが展示されています。
また、山村家の儒臣であった石作駒石の書斎「翠山楼」を移築し、公開しています。
山村代官屋敷 – 木曽町公式サイト から引用
入館料300円だったので、入らず(苦笑)
長福寺
興禅寺(こうぜんじ)に向かう。
木曽義仲の墓があるという。
その途中で、長福寺(ちょうふくじ)に参拝する。
「巴御前の長刀」と伝えられる刀剣があるという。
長福寺には「巴御前の長刀」と伝えられる刀剣があります。
長福寺の歴史上でも類を見ない大火といわれた昭和二年の全焼事故で、明治43年に撮影された写真のものは全て失いました。その中には、木曽義仲公の陣太鼓や馬具もありました。焼け跡から拾い出された中にこの長刀がありました。この長刀の存在こそが、木曽家菩提所と言われる所以品のひとつです。
長福寺 長福寺と巴御前 から引用
興禅寺
興禅寺に到着。
日本一広い石庭「看雲庭」がある。
1434年に木曾信道が創建したと伝わる。
永享6年(1434年)木曾氏12代・木曾信道が鎌倉建長寺5世の円覚大華を迎えて創建したと伝わる。天正18年(1590年)の細川幽斎の『東国陣道記』にも描かれている。江戸時代は木曾代官山村氏の庇護を受けた。寛永、明治、昭和に3度の大火に遭い、往時の面影はほとんど残っていない。
源義仲(木曾義仲)、木曾義康・義昌父子、山村氏歴代の墓地がある。
なんとか拝観受付時間に間に合った。
パンフレットをもらう。
老眼で読めないが(苦笑)
さっそく日本一広い石庭「看雲庭」へ。
庭園も素晴らしい。
アジサイが咲いている。
宝物殿に入ってみた。
さすが木曽、ヒノキをふんだんに使っている。
収蔵品が凄い、歴史あるお寺なんだね
価値が分かりませんが
芸術家のツレとしては興味津々でしょう
昇龍の庭。
木曽義仲の墓
木曽義仲の墓に到着。
意外と小さい。
木曽踊り発祥の地の石碑。
上の段地区
行人橋(ぎょうにんばし)を渡る。
ここから見える街並みは、なかなかシュールだ(笑)
御嶽登山道の石碑があった。
ここから延々と山頂を目指していたのだろう。
足湯はコロナで中止中。
馬宿小路を通っていく。
西の小径へ。
と思ったら、道に迷った(汗;)
上の段地区に出てきた。
このあたりは昭和2年5月の大火から逃れたため古い家並みが残っている。
説明看板。
入場無料だがコロナのせいで閉館中。
ホテルに戻ってきた。
最高点の標高: 799 m
最低点の標高: 759 m
累積標高(上り): 153 m
累積標高(下り): -151 m
総所要時間: 01:10:20