川中島古戦場とは
川中島古戦場(かわなかじまこせんじょう)は、長野県長野市小島田町(ながのけんながのしおしまだまち)にある史跡だ。
武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いで、武田軍が本陣をこの付近に置いたと伝えられる。
武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な川中島古戦場に開設した公園。園内には、12,000平方メートルの築山状芝生広場、自然石を配した小川のせせらぎ、かやぶき屋根の四阿等があり、史跡公園のイメージに花を添えています。この他園内には市立博物館があり、社会教育の場として広く利用されています。また隣接する八幡社の中には武田信玄と上杉謙信一騎討ちの像があります。
なお、平成29年7月1日より、公園名が「八幡原史跡公園」から「川中島古戦場史跡公園」に変更になりました。
川中島古戦場史跡公園北駐車場
2021年10月2日、この日は野尻湖を歩いたあと道の駅しなのでランチを済ませた。
そこから車で、長野市内を通過。
川中島古戦場にやってきた。
最高点の標高: 736 m
最低点の標高: 353 m
累積標高(上り): 331 m
累積標高(下り): -632 m
総所要時間: 01:42:14
川中島古戦場史跡公園北駐車場に車を停める。
駐車場はとても広く無料なので嬉しい。
八幡社
上杉謙信の旗印「毘」の幟が立てられている。
まず有名な武田信玄と上杉謙信一騎討ちの像がある八幡社に向かう。
由緒書き。
川中島合戦図があった。
ここで戦闘があった訳ではなく、武田軍が勝鬨を上げ、討ち取った敵将兵の首実見を行ったとされる場所だ。
まず参拝する。
八幡原(はちまんばら)の由緒書き。
八幡社旧社殿。
何やら悪巧みをするツレ(苦笑)
現在の拝殿。
内部はこんな感じ。
上杉謙信を討ち損ねた原大隅守虎胤(はらおおすみのかみとらたね)がその無念さから槍で突き通したと伝えられる、執念の石。
武田・上杉両軍が3万余の死闘を展開した永禄4年(1561)の川中島合戦。上杉軍は車懸かりの戦法をとり、武田軍本陣の信玄めがけ上杉謙信が切り込んできた。謙信の鋭い太刀に、信玄は手にした軍配団扇で受け止めたが、腕に傷を負った。急を見て信玄のもとに駆けつけた家臣の原大隅守虎胤※(はらおおすみのかみとらたね)は傍らにあった信玄の槍で馬上の謙信を突いた。しかし、槍先ははずれ、拍子で驚いた馬が立ち上がり、一目散に走り去った。主君の危急を救いながらも、謙信を取り逃がした原大隅が、その無念さから傍らの石を槍で突き通したと伝えられるのが、この執念の石である。
執念の石 /【川中島の戦い】史跡ガイド から引用
歴史の教科書に出てきた、武田信玄と上杉謙信一騎討ちの像にやってきた。
斬りかかる上杉謙信の太刀を武田信玄が軍配で防いだという伝説がある。
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。
川中島の戦い – Wikipedia から引用
武田信玄の旗印といえば、風林火山だ。
首を晒したという首塚。
ここに6,000人の死体を埋めたという。
公園
あちこちにボランティアらしき人がいる。
あのおじさんが説明してくれるんじゃない?
公園には長野市立博物館があり、プラネタリウムがあるらしい。
当博物館は長野市南部にある川中島古戦場史跡公園内に昭和56年9月23日に開館しました。「長野盆地の歴史と生活」をテーマにして、常設展示や特別展示、各種事業を行っています。また、プラネタリウムも併設し、独自のオリジナルの番組を制作投影しています。
博物館概要 | 長野市立博物館 から引用
きれいな公園になっている。
千曲川の堤防に上がってみた。
犀川は来るときに渡ってきた川だ。
地元出身の佐久間象山(さくまぞうざん)の銅像。
龍虎
売店までやってきた。
店名が「龍虎」だ。
ここでソフトクリームを購入。
歩いていると暑くて、こんなのがありがたい。
ほろ苦いチョコクッキーが入っていておいしいです
車で先に進んだ。
最高点の標高: 359 m
最低点の標高: 350 m
累積標高(上り): 26 m
累積標高(下り): -23 m
総所要時間: 00:32:27