平戸港交流広場
2021年11月19日、この日は川内峠(かわちとうげ)を歩いた。
そこから車で、平戸港交流広場(ひらどこうこうりゅうひろば)にやってきた。
平戸港交流広場は長崎県平戸市宮の町(ながさきけんひらどしみやのちょう)にある広場だ。
最高点の標高: 232 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 45 m
累積標高(下り): -271 m
総所要時間: 00:19:08
自走式の有料駐車場だが、2時間までは無料で利用できる。
平戸市観光交通ターミナル・平戸桟橋の横にある広場。
周辺に、松浦史料博物館、平戸オランダ商館、寺院と教会が見える風景、平戸ザビエル記念教会など平戸の主な観光地が固まっており、散策の拠点となる広場である。
一般車両駐車場はコインパーキングになっており、2時間までは無料。約50台停車できるが、連休・お盆・年末年始などは満車になることが多いので注意。(満車の場合は平戸市第1・2有料駐車場など周辺の有料駐車場をご利用ください)
平戸港交流広場
長崎県平戸市宮の町655−10
駐車場はとても広い。
観光案内所があるので、中に入ってみた。
オランダ塀
観光案内所で地図をもらい、歩いて行く。
平戸島(ひらどじま)は元寇の襲来を受けた場所で、1550年にはポルトガル船が来航するなど、国際貿易港であった。
オランダ塀まで歩いてきた。
1618年に築造されたものだという。
オランダ商館の塀の一部が残っている民家の前の通りから、山手に登る石段の坂道に沿っている石塀が「オランダ塀」である。 この塀は部厚な砂石を平積みして、その上に貝殻と石炭を混ぜて作った漆喰のようなものを塗っている。 高さは2m、長さ30m程度。 1618年(元和4)に築造され、商館本館のほか、倉庫、火薬庫、病室等の目隠しとして作られた。 黒ずんだ塀に、蔦かずらが這う様は、長年の月日を感じさせる。
オランダ埠頭
オランダ埠頭にやってきた。
オランダ商館の船着場として、運搬の重要な施設であった。
オランダ井戸の東側道路を隔てて、恵比寿神社側に向かって下りる石段がある。これがオランダ埠頭(恵比寿埠頭)である。 オランダ 商館時代には、アーチ型の門が建っていたという。 商館の船着場として、商館員、船員の乗り降りをはじめ、積荷の上げ下ろし運搬の重要な施設であった。 恵比寿埠頭に立つと、交易で賑わった当時の人々の足音が、響いてくるようだ。
オランダ商館
その先がオランダ商館だ。
1639年に建設された日本で初めての西洋の石造建造物で、2011年に復元された。
平戸オランダ商館は、1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸城主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点です。
砂岩板石群は2006年の石垣復元工事の際に出土した大型の砂岩板石群だ。
1641年に長崎出島に移転するまで、平戸が唯一のオランダ貿易港として賑わっていた。
しかしキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、当時の禁教令の下、1640年に全ての建物の破壊が命じられた。
中に入る。
撮影OKなのがうれしい。
入ってすぐの場所に、大砲が展示されていた。
俺の世代は、やっぱりザビエルのこの絵が印象的だ。
キリスト教の禁止で平戸からオランダ商館はなくなったが、この鎖国政策により日本は他のアジア諸国のように西洋の植民地にならなかったとも言える。
2階は巨大すごろく。
オランダ商館通り
オランダ商館を出て、海沿いのデッキを歩いて行く。
平戸港は大島や渡島などにフェリーが就航している。
ここから車道に戻る。
平戸城下の街並みを歩いた。
電柱を地中化して、きれいな街並みを作り出している。
江戸時代は平戸藩がおかれ、1707年に平戸城が完成するまではここに「中の館」と呼ばれる居館を構えていた。
現在この通りは、オランダ商館通りと命名されている。
足湯があった。
三浦按針の銅像。
ザビエルの銅像。
松浦資料博物館まで歩いてきた。
1893年に藩主だった松浦家の私邸として建てられた。
観音地蔵堂まで歩いてきた。
樹齢400年のソテツ。
寺院と教会の見える風景
坂の先が、「寺院と教会の見える風景」と呼ばれるフォトスポットだ。
平戸ザビエル記念教会に到着。
残念ながら、中には入れないようだ。
平戸はキリシタン殉教の地でもある。
光明寺まで歩いてきた。
1592年に柴田勝家の三男の空性により創建されたという。
山門まで下ったところが撮影ポイントだ。
ポスターなどで見かける風景。
港まで戻ってきた。
車で先に進んだ。
最高点の標高: 44 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 74 m
累積標高(下り): -75 m
総所要時間: 01:00:12