猪苗代湖とは
猪苗代湖(いなわしろこ)は、福島県会津若松市、郡山市、耶麻郡猪苗代町にまたがる湖だ。
猪苗代の名のおこりは磐椅明神が昔、野猪に苗代を耕作させたのでそう呼ぶようになったという説や、イナワシロはアイヌ語だという説などがありますが、定説はありません。
しかし、稲作農業と深い関わりがあったことだけは確かです。
磐梯山や猫魔火山の大規模な噴火活動によって、猪苗代が現在のような形になったのは約4万年から5万年ほど前と推定されていますが、いまから1万2000年前頃にはすでに湖畔には先住民が住んでいたと想像されています。磐梯山麓を中心にした遺跡の標高は最も低くても510mくらいあります。
このような標高の高いところに遺跡が多いのは猪苗代湖での魚介類や山奥の渓流にも魚影が多く、狩猟は広大な山麓を中心にして行われ、谷間に追い落とす巻狩りや湖沼に追い込むなどの方法で動物を捕獲し、食肉や衣服に利用したものと思われます。自然豊かな原始時代にあっても磐梯山周辺は格別に食料獲得が安易だったのでしょう。
山麓に点在する遺跡の多くは、繰り返す火山活動によって泥流下にあると推測されていますが、特に猪苗代湖に面した東南の山麓には多くの縄文時代からの遺跡がみられ、なかには縄文時代以前のものも散見します。
さらには長浜、蟹沢浜、三城潟の湖底には縄文から古墳時代までの遺跡が確認されています。
日本国内で4番目に広い湖で、日本百景に選定されている。
猪苗代湖には弘法大師の伝説が残る。
弘法大師がこの地を通りかかった際、機を織っていた女に水を乞うが断られてしまう。そこで別の村で米をといでいた翁という名前の貧しい女に米のとぎ水を乞うと、快く飲ませてもらえた。その翌日、磐梯山が噴火して周囲の52の村が陥没して湖底に沈んでしまったが、弘法大師に水を飲ませた翁の家だけは湖底に沈まず、島となった。これが翁島だという伝説が会津地方に伝わる。
猪苗代湖 – Wikipedia から引用
上河内SA
2021年4月5日、前日は深大寺に参拝した。
東京を車で出発し、東北自動車道を北上する。
上河内SA(かみかわちサービスエリア)で休憩する。
桜が満開だ。
店内では、お土産物をいろいろと売っていた。
あいにくの雨で、桜も散ってしまっていた。
再び高速で、猪苗代湖を目指す。
磐梯熱海ICで高速道路を下りる。
国道49号線に入る。
志田浜
志田浜(しだはま)に到着。
国道49号線を猪苗代方向に向かうと猪苗代湖の白い砂浜に沿レイクサイド磐光が立っているところが志田浜です。また、100年ぶりに復元された「山くじら」もここに安置されています。
猪苗代湖で最大級の賑わいを見せる浜だと聞いてやってきたが、この日はあまりの強風で人影は見えない。
強風のため、音声が聞きづらい。
気温5度と、メチャメチャ寒い(汗;)
湖のはずだが、この日は強風のためサーフィンができそうな波が立っていた。
志田浜
車で少し先の志田浜駐車場に移動。
あまりにも風が強くて、ボートも誰も乗っていない。
ここは日本遺産に選定されている。
銅像発見。
昭和女子大学が寄付した親松英治氏の作品で、白鳥と一緒に踊る女性の像だそうだ。
実はこの像と同じ乙女を中心に左右反対で白鳥が舞っているブロンズ像を、本学と同窓会が平成9年に猪苗代湖の志田浜に寄付しています。今では、猪苗代湖の観光名所にもなっているそうですよ。志田浜は、磐梯山に抱かれ、猪苗代湖が目前に広がる観光客も多く集まる場所です。本学の昭和之泉にある白鳥と乙女の像は、志田浜の像と向き合って立っているのかもしれませんね。
「白鳥の湖」の像をご存知ですか|金子朝子の昭和のこれなあに Messages from President|昭和女子大学 から引用
まあ、やるよね(苦笑)
車で先に進んだ。