女人堂
2022年1月4日、この日は甘党喫茶きくでランチを済ませた後、南院に参拝した。
そこから徒歩で、女人堂まで歩いてきた。
真言宗総本山の高野山は「一山境内地」で、明治5年まで女人禁制とされてきた。
そのため女性はここまでしか入れず、女人堂に参拝して下山するしかなかった。
高野山は明治5年まで長く女人禁制でした。その間、高野七口にはそれぞれ女人堂が建っていて、女性はそこから先へは行けませんでした。その女人堂で唯一残っているのが不動口の女人堂です。
この女人堂は当時7ヶ所あった女人堂の一つで、現在唯一残っているものとなっている。
由緒書き。
正式には、高野山別格本山西南院(さいなんいん)という。
京大坂道不動坂
ここから女人道(にょにんみち)という道が続く。
女人堂から南海電鉄の極楽橋駅まで歩いて行く。
当初は女人堂からケーブルカー駅まで歩いて、ケーブルカーで下山する計画だった。
女人堂で僧侶に確認したところ、その道はバス専用で歩行者も通行禁止になっているという。
そのため女人道を歩いて、極楽橋駅に向かうことにした。
ケーブルカー駅への道には、進入禁止の看板が建っていた。
京大坂道不動坂(きょうおおさかみちふどうざか)というようだ。
世界遺産に指定されている道だ。
特に、京大坂道の極楽橋から不動坂口に至る区間は「不動坂」と呼ばれ、京大坂道における一区画を指し[2]、約 2.7km と比較的短い距離だが、高低差 310mの急坂で京大坂道最後の難所であった[16]。特に京大坂道不動坂といった場合は、この不動坂部分のみを指す[2]。
京大坂道 – Wikipedia から引用
非常に整備された道で、車も通っているようだ。
清不動堂(きよめのふどうどう)に到着。
弘法大師により開基されいろは坂とよばれる急坂にあったものを、移転したという。
清不動堂(きよめのふどうどう)は、和歌山県高野町の京大坂道の不動坂にあるお堂である。
古くは、「外の不動堂」と呼ばれていたお堂があり、杉材で作られた像高84cmの不動明王坐像が本尊として祀られていたが、現在は風化による破損が著しいため、高野山霊宝館に収蔵されている。
紀伊名所図会によると、この「外の不動堂」は、もともと弘法大師の草創で、寛文年間(1661-1673)に、備前の国上道郡金岡荘(かみじごおりかなおかのしょう)の野崎家久入道が再建したとされる。
その後、明治16年(1883年)に焼失し、明治20年に大阪伏見町の上田みちという助産婦により再建された。
大正4年(1915年)に不動坂が全面改修され新しいルートとなったため、外の不動堂は荒廃していたが、大正9年(1920年)に大阪の桝谷清吉、寅吉の親子が、新しい不動坂へ修復移転し、清不動堂を建立したものである。
移転前の外の不動堂は、いろは坂とよばれる急坂を登ったところにあったため、高野町の案内板が建てられている。
清不動堂 から引用
いちおう軽アイゼンは持参しているが、南国育ちのおじいとおばあに雪道はキツイ。
極楽橋駅
線路が見えてきた。
どうやらケーブルカーの線路らしい。
高野山ケーブルカーは、高野線の終着駅である極楽橋駅と真言密教の聖地高野山の玄関口である高野山駅を結ぶ路線です。
ケーブルカーは、法律のうえでは「鋼索鉄道」という種類にあたり、当社では『鋼索線』と呼んでいます。
1930(昭和5)年に開通し、国内でも有数の歴史を誇り、高野山への参拝客はもちろん、高野山にお住まいの方の交通手段としての役割も担ってきました。
全長0.8Km、高低差328mで東京タワーとほぼ同じ高さを約5分で一気に昇ります。
この急坂が京大坂道不動坂の旧道で、世界遺産に指定されている。
ケーブルカーの極楽橋駅が見えてきた。
こちらが南海電鉄の極楽橋駅。
極楽橋が見えてきた。
駅名の由来となった「極楽橋」は、かつて高野山参詣の主要ルートのひとつとして賑わった街道筋にあります。この駅から極楽橋を渡り不動坂を登って行くと、女人堂を経て山内の中心部へ。
極楽橋周辺は、豊かな自然が残る高野山国有林です。
極楽橋駅に到着。
電車で先に進んだ。
最高点の標高: 859 m
最低点の標高: 526 m
累積標高(上り): 231 m
累積標高(下り): -525 m
総所要時間: 04:10:03