弘道館とは
弘道館(こうどうかん)は、茨城県水戸市三の丸(いばらきけんみとしさんのまる)にある史跡だ。
1841年に作られた藩校で、日本最大級とされる。
弘道館は、天保12年(1841年)8月1日に仮開館式が挙行され、さらに、15年あまりの年月を要し、安政4年(1857年)5月9日に本開館式の日を迎えました。
藩校当時の敷地面積は約10.5haで、藩校としては全国一の規模でした。敷地内には、正庁(学校御殿)・至善堂の他に文館・武館・医学館・天文台・鹿島神社・八卦堂・孔子廟などが建設され、馬場・調練場・矢場・砲術場なども整備され、総合的な教育施設でした。
概要 | 観光いばらき から引用
弘道館 正庁
茨城県水戸市三の丸1丁目6−29
029-231-4725
駐車場
2022年10月19日、この日は偕楽園(かいらくえん)を歩いた。
そこから車で、弘道館(こうどうかん)にやってきた。
駐車場は無料だ。
最高点の標高: 25 m
最低点の標高: 20 m
累積標高(上り): 9 m
累積標高(下り): -11 m
総所要時間: 00:11:36
敷地
水戸城大手門の向かいにある。
入館料は400円。
徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」の影響を受けた「水戸学」の舞台となった。
内部はこんな感じ。
藩校当時の敷地面積は約10.5haで、藩校としては全国一の規模だった。
1872年の「学制」発布により、弘道館は閉鎖された。
正庁
まず正庁に入る。
撮影OKなのがうれしい。
正面玄関。
正庁(学校御殿)は弘道館の管理棟だそうだ。
掛け軸は、NHKの大河ドラマに出てきた記憶がある。
弘道館の受講料は無料で、無試験で入れたそうだ。
ただ家柄が低い者は、出席すべき日数が少なく設定されていた。
入学年齢は15歳で、40歳まで就学が義務づけられていた。
卒業の制度はなく、生涯教育といえる。
正庁正席の間は、藩主が臨席をした部屋だ。
掛けられているのは、弘道館記碑の拓本。
扁額「遊於藝」は、斉昭の書だという。
おばあには無理だね。
湯殿。
合計100名前後の先生がいたといわれている。
こんなに広い学校は初めてだね。
松下村塾などはとても小さかった。
儒学、礼儀、歴史、天文(暦)、数学、地図、和歌、音楽など、武術では剣術、槍、柔術、兵学、鉄砲や大砲の射撃、馬術、水泳などを教えていた。
至善堂(しぜんどう)は、藩主の休息所。
徳川慶喜は、幼少期にここで学んでいたという。
大政奉還後には、慶喜がここで謹慎して過ごした。
国の特別史跡に指定されている。
正庁・至善堂・正門は、国の重要文化財に指定されている。
御三家ですもんね。
大日本史があった。
散策路
散策路があるので、歩いてみた。
斉昭は梅を愛し、また梅干しは軍事の際の非常食として役立つとして、偕楽園と弘道館に梅の木を植えさせた。
対試場は武術の試験などが行なわれた場所で、藩主は正庁正席の間から試験の様子を見たという。
斉昭お手植えの松。
水戸城
水戸城の大手橋を渡る。
大手門は、令和2年に復元された。
水戸城は、日本最大級の土造りの城だ。
水戸城は、北を那珂川、南を千波湖に挟まれた、日本最大級の土造りの城です。
大規模な土塁とともに、城の西側の台地には五重の堀、東の低地には三重の堀を巡らせ、堅固な防衛線を築いていました。なお、石垣構築の計画は何度かあったようですが、諸事情により築かれることはありませんでした。
道路は、空堀の跡だ。
弘道館は、三の丸にあたる。
1590年にここを本拠としていた江戸氏を滅ぼし、常陸国主佐竹氏の居城となった。
佐竹氏は関ケ原の戦いで中立を守ったことで秋田に転封となった。
その後、徳川頼宣が封じられ水戸徳川家の居城となった。
現在は水戸市立第二中学校など文教地区となっている。
車で先に進んだ。
最高点の標高: 21 m
最低点の標高: 12 m
累積標高(上り): 11 m
累積標高(下り): -10 m
総所要時間: 00:29:09