珈琲館苑
この日は2021年2月12日、自宅を車で出発し、珈琲館苑にやってきた。
この日の日替わりランチは、塩鮭と焼肉だった。
さすが珈琲館、食後のコーヒーがおいしい。
地場産センター
佐川町の地場産センターにやってきた。
ここの観光用駐車場に車を停める。
2階に上がると、佐川町の古い街並みのジオラマがある。
雛祭りも近いと言うことで、ひな人形が飾られていた。
梅花黄蓮という喫茶コーナーもある。
以前ランチをしたことがある。
佐川町は司牡丹という酒蔵がある。
牧野富太郎ふるさと館
地場産センターを出て、町を歩いて行く。
牧野富太郎ふるさと館にやってきた。
日本植物学の父・牧野富太郎博士の生家跡に建つ顕彰館。博士のふるさとならではの品を展示。
牧野富太郎ふるさと館 | 各エリア詳細情報 | 「リョーマの休日~自然&体験キャンペーン~」公式サイト | 高知県観光キャンペーン から引用
牧野富太郎は佐川町出身の植物学者で、その名を冠した植物園が高知市にある。
中に入ってみた。
入館無料なのに、手づくりの押し花の栞までもらってしまった。
金峰神社
金峰神社(きんぷじんじゃ)に参拝する。
牧野富太郎博士が幼少の頃、この神社の境内でバイカオウレンなのど植物を採取し、植物への興味を広げた逸話は有名で、博士のその後の人生を決定づけた重要な場所ともいえる。
牧野公園駐車場
牧野公園の駐車場に到着。
今回は清源寺には立ち寄らず、先に進む。
ミツマタの木に、花の蕾が膨らんできていた。
英彦山でミツマタが満開だったのを思い出した。
稲荷神社
稲荷神社(いなりじんじゃ)の赤い鳥居を抜ける。
恵比寿神社と稲荷神社が合祀されている。
牧野富太郎の墓
牧野富太郎の墓に参拝する。
その隣に、田中光顕(たなかみつあき)の墓もある。
元宮内大臣で、動乱の幕末期を駆け抜け、生き抜いた最後の生き証人としても知られる田中光顕(たなかみつあき)は、天保14(1843)年、土佐国高岡郡佐川村(現在の佐川町)に、深尾家の家臣、浜田金治の息子として生まれました。
郷校・名教館で学び、叔父・那須信吾の影響を受け、文久元年(1861)、武市半平太を盟主とする土佐勤王党に入党。
3年後の元治元年(1864)には、同志らと土佐を脱藩。その時の決意を詠んだのが冒頭の句です。
以後田中は長州へ脱藩し、志士としての活動に奔走します。坂本龍馬や中岡慎太郎らとともに薩長同盟の実現に尽力。
龍馬と慎太郎が暗殺された際、現場に駆け付けた一人としても知られています。明治新政府では、陸軍少将、初代内閣書記官長、警視総監などの要職を歴任。明治31(1898)年からは、12年間という長い間宮内大臣をつとめました。
バイカオウレン
バイカオウレンが咲いていた。
小さくて可憐な花だ。
見るのは加茂地区に群生しているのを見に行って以来だ。
セリバオウレン。
福寿草(ふくじゅそう)も咲いていた。
物見岩
佐川城趾の碑。
築城年代は定かではないが天正元年(1573年)頃に久武内蔵助によって築かれたと云われる。松尾城の中村越前守信義が元亀2年(1571年)に長宗我部元親に降ると、元親の重臣久武内蔵助が松尾城主となったが、城内の水不足を嫌い向かいの山に築いたのが佐川城である。
関が原合戦によって長宗我部氏が改易となり、変わって山内一豊が土佐へ入国すると、その重臣深尾和泉守重良が一万石を賜って佐川城主となった。しかし、元和の一国一城令によって佐川城は廃城となり、東麓に土居屋敷を構えて明治まで続いた。
土佐 佐川城-城郭放浪記 から引用
物見岩。
セツブンソウ。
ユキワリイチゲ。
青山文庫(せいざんぶんこ)まで下りてきた。
青山文庫は、名前に「文庫」とついているので図書館と間違われることがありますが、坂本龍馬・中岡慎太郎・武市瑞山らの維新関係資料や、江戸時代に佐川の領主であった土佐藩筆頭家老深尾家の資料などを展示している博物館です。
幕末維新の生き証人であった、佐川町出身の元宮内大臣田中光顕(みつあき)が収集した志士たちの書状や画などの遺墨コレクションを中核に、主に近世・近代の歴史資料を収蔵しています。
佐川町立青山文庫 | 佐川町役場 から引用
ナウマンカルストに向かった。
最高点の標高: 167 m
最低点の標高: 76 m
累積標高(上り): 489 m
累積標高(下り): -483 m
総所要時間: 03:32:23