素盞嗚神社社とは
素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、広島県福山市新市町戸手(ひろしまけんふくやまししんいちちょうとで)にある神社だ。
備後国一宮とされる。
祇園信仰、祇園祭発祥の神社で、境内は巨旦将来の屋敷跡と伝わる。
この素盞嗚神社は、備後風土記に見られる蘇民将来伝説の舞台となる神話に彩られた由緒正しい古社です。
社伝によれば679年の創建したとされ、後に遣唐使であった吉備真備が天平6年 (734年)に素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請し、さらに貞観11年(869年)、広峯神社から平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)勧請されたとされています。
素盞嗚神社
〒729-3101 広島県福山市新市町戸手1−1
0847-51-2958
駐車場
2023年4月1日、この日は吉備津神社(きびつじんじゃ)に参拝した。

そこから車で、素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)にやってきた。
さっき参拝してきた吉備津神社は備後国一宮だったが、ここも備後国一宮とされている。
橋を渡ってすぐの場所にも駐車場があったが、神社の隣にもあるので、こちらがお勧めだ。
相方城城門
城門がある。
相方城の山門を移築したとされる。
東側の門は16世紀末から17世紀ころの建物と推定され、現存する戦国期の山城の城門としては最古級とされる。
境内
素盞嗚神社は679年に創建された古い神社だ。
734年に遣唐使であった吉備真備が素盞嗚命を播磨の広峯神社に勧請したとされる。
桜吹雪が舞っている。
大鳥居は、江戸時代中期元禄時代の建立。
随神門の先にも駐車場があった。
祇園祭の由緒書き。
素盞嗚神社の由緒書き。
この付近は疫隈郷(えのくまのさと)と呼ばれ、入江になっていて古山陽道が通る交通の要衝だった。
蘇民将来(そみんしょうらい)の弟の巨旦将来(こたんしょうらい)の屋敷跡と伝わる。
「茅の輪(ちのわ)」伝承発祥の地だ。
昔、北の海におられた武塔神 (むとうのかみ) と称される神が、南の海の神の娘のところへ行かれる途中で日が暮れてしまった。そこに蘇民将来と巨旦将来 (こたんしょうらい) はという二人の兄弟がいた。兄の蘇民将来は大変な貧乏だったが、弟の巨旦将来は大変金持ちで、家も蔵も百ほどもあるような富豪だった。神は一夜の宿を弟の巨旦将来に頼まれたが、けちな弟は泊めることを断ったので、兄の蘇民将来のところへ行って一夜の宿を頼まれると、そこでは快く迎えた。しかし貧乏なので、敷物の代わりに栗殻を敷き詰めて座にし、栗飯を炊いてさしあげ手厚くもてなした。それは蘇民にとって精一杯のもてなしだった。
一夜明けて神はそこを出発され、幾年か経った後、八人の子を連れての帰り道、蘇民将来のところへ立ち寄られた。そして「巨旦将来への報いと、一夜の恩を受けたお前のために何かしてやりたいが、お前の子や孫達はおるのか」と聞かれると、蘇民将来は「私と娘と妻がいます」と答えた。すると神は「茅の茎で作った茅の輪 (ちのわ) を腰につけておきなさい」と言われたので、言われるとおりにした。ところがその夜のうちに、蘇民と妻子以外の、周りに住む人々がことごとく死に絶えほろぼされてしまった。
その時神は「私は須佐之男命である。今から後の世に疫病がはやれば、お前達は “ 蘇民将来の子孫 ” といって、茅の輪を腰につけなさい。私の言うとおりにすれば、茅の輪を腰につけた者は疫病から免れるだろう」と言われた。
この故事から「茅の輪 (ちのわ)」は疫病除け、悪災疫除けの霊力のある神符といわれている。
素盞嗚尊(すさのをのみこと)が旅の途中で立ち寄って、歓待しなかった巨旦将来たちを滅ぼした。
素盞嗚尊を歓待した蘇民将来の家族は茅の輪 (ちのわ) を腰につけるよう言われ、助かった。
この故事から、茅の輪は疫病除け、悪災疫除けの霊力のある神符とされるようになった。
参拝
随神門。
素盞嗚神社は祇園祭発祥の地でもある。
祇園祭は、素盞嗚尊の怒りを静めるために行われている。
町を神輿で巡り、スサノオの分霊をすべて集め、御旅所に引っ越して頂く。
拝殿。
神仏習合により牛頭天王を祭神としていたが、明治の神仏分離により本来の素盞嗚尊が祭神となった。
摂社
摂社の蘇民神社。
その隣に疱瘡神社が鎮座する。
本殿は入母屋造檜皮葺。
備後福山藩の初代藩主水野勝成の再建と伝わる。
戸手天満宮は、神仏習合時代の別当寺である早苗山天竜院天王寺の本堂だった。
本地堂が祇園社(素盞鳴命奉祀神社)に残っているのは、全国唯一だ。
車で先に進んだ。
