九州から山口へ
前日は竹田を散策していた。
この日は九州をあとにし、山口県の観光をすることにしていた。
角島大橋を見てから、萩の観光をする予定だ。
朝、宿泊していた長者原を出発。
車で本州に渡る。
九州に来る時は関門トンネルを通ったので、今回は関門橋で渡ることにした。
本四連絡橋からすると短いので、あっという間に渡りきってしまった。
道の駅北浦街道
角島大橋への途中にある道の駅北浦街道に立ち寄った。
道の駅北浦街道ほうほく | トップページ
北長門海岸国定公園に指定された美しい景観の北浦街道191号線ドライブは都会の疲れを癒し明日の活力を生むことでしょう。
「北浦街道 豊北」は和久港を眼下に水平線には角島大橋を遠望する丘の上にあります。2槽の生け簀の魚たちがお出迎えします。豊北町8つの漁港で水揚げされたばかりの豊富で新鮮な魚介です。 レストランでの活造りも可能で、水産品の充実度は皆さまにご満足いただけるものと自負しております。
この日は雨だ。
土曜のお昼時の11:46と言うこともあるが、結構混み合っていた。
道の駅ができて5周年らしい。
売店は広く、レジには行列も。
券売機で食券を買う。
あら炊き定食にした。
凄いボリュームだ。
さすがに食べきれず、残してしまった。
すみません・・・
せっかくなので、アワビの刺身も頼んでみた。
活きが良い。
ベランダに出てみると、マスコットの「ほっくん」と記念撮影できるようになっていた。
角島大橋
角島大橋(つのしまおおはし)は山口県下関市豊北町にかかる橋だ。
対岸の角島に続く。
コバルトブルーの海を渡る景色が美しく、CMに登場したことで有名になった。
角島大橋|観光情報|山口県の旅行・観光情報 おいでませ山口へ
平成12年に開通した角島大橋は、離島に架かる橋のうち、無料で渡れる一般道路としては、日本屈指の長さ(1780m)です。
当地特有のコバルトブルーの海士ヶ瀬(あまがせ)をまたぎ、景観と調和した雄姿は、北長門海岸地域随一の景勝地となる実力は十分です。
いよいよ角島大橋に到着。
駐車場からよく見える。
このあたりの砂は白く、水深も浅いので、海の色がコバルトブルーだ。
CMに使いたくなる気持ちも分かる。
実際に橋を渡ってみた。
通行料は無料。
島の灯台まで行ってみた。
萩
萩は、山口県萩市。
俺くらいの世代だと、「萩、津和野」といえばan・an、non・noで特集されてあこがれの場所として、知らない人はいないだろう。
今どき風にいえば「歴女」必見の場所だ。
萩市観光協会「ぶらり萩あるき」
萩は、毛利輝元が慶長9年(1604)に萩の地に築城、開府し、藩府が山口に移るまでの約260年間、毛利氏36万石の城下町として栄えました。古い街並みはいまも往時の面影を色濃く残しています。
また、萩は明治維新胎動の地として、吉田松陰をはじめ高杉晋作、伊藤博文など多くの逸材を輩出した地でもあります。維新志士ゆかりの場所や、古い神社仏閣など、まるで歴史の本を見ているかのような風景が広がります。
松陰神社
まずは、松陰神社へ。
宗教法人松陰神社(公式ホームページ)
松陰神社の御祭神、吉田矩方命(以下松陰先生)が殉節されてから31年後の明治23年(1890)8月、松下村塾出身者などの手により松下村塾の改修が行われました。このとき松陰先生のご実家、杉家の人々の手で松陰先生の御霊を祀る土蔵造りのほこらが建立されました。これが松陰神社の前身であります。
明治40年(1907)、松下村塾出身の伊藤博文や野村靖が中心となって、このほこらを公の神社として創建しようと、山口県に請願書が提出されました。同年10月4日に、当時の社格制度の中で県社の社格をもって創建が許可され、土蔵造りのほこらを松下村塾南隣に移して本殿としました。萩城の鎮守で、当時廃社となっていた、宮崎八幡宮の拝殿を譲り受け移築するなど、境内の整備が進められました。
昭和11年(1936)、松陰神社改築奉賛会が設立され、翌年には王政復古七十周年記念事業として、神社神域拡張工事が着工されました。昭和15年(1940)には新社殿が起工され、同17年(1942)には桧皮葺の社殿が竣功しました。しかし大東亜戦争が激しさを増し、国家総力戦の様相を呈するに至り、遂に御遷座されないまま終戦を迎えました。
戦後、社会情勢が落ち着くと、厚東常吉などが中心となり事業を再開しました。新社殿屋根を銅版に葺き替えるなどの改修工事をおこない、ついに昭和30年(1955)10月26日に御祭神が新社殿に遷座されました。これが現在の松陰神社本社であります。
翌昭和31年(1956)には、旧社殿を新社殿北隣に移し、松陰先生の塾生、門下生を御祭神とする末社・松門神社が建立されました。平成22年(2010)10月、松陰先生御生誕180年記念に10柱を追合祀しました。更に平成27年(2015)10月、松陰先生の遺書「留魂録」を守り抜き、後世に伝えた功績をもって、沼崎吉五郎命を合祀し、現在その御祭神は53柱であります。
駐車場は無料だ。
こちら側の駐車場はガラガラ。
向こう側の駐車場は、観光バスが一杯。
地下道を通って、神社に向かう。
観光案内板。
世界遺産の看板。
雨なのに、大混雑だ。
なにやら撮影をしている。
混みすぎで、記念写真もままならない。
写真は諦めて、参拝に向かう。
参拝後、いろいろ見て回った。
吉田松陰が幽閉されていた部屋。
アメリカ軍艦に乗り込もうとして捕らえられた後、ここに幽閉されていたそうだ。
松下村塾。
とても小さい。
伊藤博文邸
松陰神社から、伊藤博文の別邸に歩く。
萩市観光協会「ぶらり萩あるき」
別邸は、伊藤博文が明治40年(1907)に東京府下荏原郡大井村(現:東京都品川区)に建てたもので、車寄せを持つ玄関の奥に、中庭をはさんで向って右に西洋館、左に書院を配し、さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた広大なものでした。
萩市へは往時の面影をよく残す一部の玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移築しています。
明治時代の宮大工伊藤万作の手によるもので、大広間の鏡天井や離れ座敷の節天井など非常に意匠に優れています。
ここにはガイドが常駐し、施設の説明を行っています。
中に入ってみた。
屋根を修復中だった。
銅像。
反射炉
車で、反射炉に行く。
萩市観光協会「ぶらり萩あるき」
反射炉は、鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉で、萩藩の軍事力強化の一環として導入が試みられました。萩藩は安政2年(1855)、反射炉の操業に成功していた佐賀藩に藩士を派遣し、鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れますが、拒絶され、反射炉のスケッチのみを許されます。
現在残っている遺構は煙突にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)です。オランダの原書によると、反射炉の高さは16mですから、約7割程度の規模のものになります。また、萩藩の記録で確認できるのは、安政3年(1856)の一時期に試験炉が操業されたということだけであることから、萩反射炉はこのスケッチをもとに設計・築造された試験炉であると考えられています。
反射炉の遺構は、萩のほか韮山(静岡県)と旧集成館(鹿児島県)にあるだけで、わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡です。
コンビニの横にある駐車場に車を停める。
坂道を登っていく。
反射炉が見えてきた。
説明。
道の駅阿武町
萩をあとにし、道の駅阿武町へ。
道の駅阿武町/あぶクリエイションのホームページ
道の駅阿武町は、国道191号線沿いにある、海景に恵まれた道の駅です。
新鮮な水産物や特産品を揃える物産直売所兼観光案内所、日本海温泉「鹿島の湯」、温水プール、ダイニングカフェ846、公衆トイレなどがあり、ドライブの休憩所、情報発信基地、交流・憩いの場としてご利用いただけます。
ここは、日本で最初の道の駅らしい。
パン工房もある。
売店は賑わっている。
新鮮な魚が人気のようだ。
生け簀のフグに心動かされる。
予算の都合で断念(涙)
寿司も良さそう。
施設内の風呂に入る。
この日は、ここで車中泊だ。
感想
角島大橋は「一度は見てみたい」場所として知られていたので、立ち寄れて何よりだった。
確かに美しい海だ。
雨にもかかわらず青さが引き立っており、お天気がよければさぞ美しいことだろう。
松陰神社も何十年ぶりだろう。
世界遺産に認定されたこともあり、当時とは比べものにならないくらいの人混みだった。
反射炉は意外と空いていて、穴場になっている。
当時の歴史を思い浮かべながら、ゆっくりするといいだろう。
最高点の標高: 1025 m
最低点の標高: -5 m
累積標高(上り): 2447 m
累積標高(下り): -3464 m
総所要時間: 08:13:26