美保神社とは
美保神社(みほじんじゃ)は、島根県松江市美保関町美保関(しまねけんまつえしみほのせきちょうみほのせき)にある神社だ。
出雲の「国譲り神話」に出てくる事代主の神(ことしろぬしのかみ、通称恵比寿様)の総本宮とされる。
天平5年(733)編纂の『出雲国風土記』及び延長5年(927)成立の『延喜式』に社名が記されており、遅くともその時期には「社」が存在していたことがわかります。境内地からは4世紀頃の勾玉の破片や、雨乞いなどの宗教儀式で捧げたと考えられる6世紀後半頃の土馬が出土しており、古墳時代以前にも何らかの祭祀がこの地で行われていたことがうかがえます。
美保神社
島根県松江市美保関町美保関608
0852-73-0506
境水道大橋
2022年9月26日、この日は水木しげるロードを歩いた。
そこから車で、境水道(さかいすいどう)沿いに走る。
正面に見えているのが、境水道大橋だ。
鳥取県境港市と島根県松江市を結ぶ、長さ709m、高さ40mのアーチ橋だ。
鳥取県境港市と島根県松江市を結ぶ、長さ709m、高さ40 mのアーチ。
平成14年7月21日、大橋開通30周年に伴い無料化となり、より県境を越えた観光が便利に。
橋下には外国船や漁船が頻繁に通り、橋のふもとには多くの釣り人の姿も。
この橋の両脇には歩道も設けられ、最寄りの場所からの散策も可能。高さ40mからのパノラマの絶景を県境から眺める、なんていう貴重な体験もできてしまいます。
境水道大橋 から引用
1972年に開通した当時は、中国地方で最長で、全国でも5番目の長さを誇っていた。
平成14年に無料化された。
工事で片側交互通行になっていた。
境水道大橋から県道2号線に入る。
境水道大橋の下を通過。
境水道沿いに走って行く。
美保関観光無料駐車場
美保関(みほのせき)の町に入ってきた。
美保関観光無料駐車場に到着。
最高点の標高: 587 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 349 m
累積標高(下り): -877 m
総所要時間: 01:00:56
弁天波止場に面した駐車場で、無料なのがうれしい。
美保関観光無料駐車場
島根県松江市美保関町美保関661−2
弁天波止場
美保関(みほのせき)は出雲の「国譲り神話」に登場し、聖なる岬と呼ばれてきた。
島根半島の東端、三方を海に囲まれた美保関町は、聖なる岬と呼ばれてきました。国譲りの舞台となった神話の時代から、北前船で栄えた江戸時代、そして今日まで。 神と共に暮らし、海に生かされてきた、このまちのすべてがパワースポットです。 海からのぼる朝日に照らされ、新しい一日が始まる場所。
朱塗りの「浮島橋」が架かる。
鞆の浦(とものうら)にあったような常夜灯が建っている。
1842年に建てられたそうだ。
来待石で組まれた弁天島に立つ常夜燈です。
まず案内看板でルートを確認。
浮島橋を渡る。
弁天様ではなく、筑紫社・和田津見社だった(汗;)
釣り人が何人かいた。
美保神社
まず、美保神社(みほじんじゃ)に向かう。
「回船御用水」という井戸があった。
その横に「青石畳通り」がある。
祭神は三穂津姫命(みほつひめのみこと)、「えびす様」の別名で知られる事代主神(ことしろぬしのかみ)
事代主の神(ことしろぬしのかみ、通称恵比寿様)の総本宮とされる。
出雲大社の大国主大神は大黒様、美保神社のえびす様と合わせて「えびすだいこく両参り」と呼ばれ、両方合わせてお参りすることで、よりよい縁に恵まれるといわれる。
創建は不詳だが、733年の『出雲国風土記』に社名が記されている古い神社だ。
全国3000以上あるえびす様の総本宮だ。
注連縄が凄く大きい。
拝殿は昭和3年に造営された檜造り。
内部はこんな感じ。
左側に三穂津姫命、右側に事代主神が鎮座する、大社造の二殿の間を「装束の間」でつないだ特殊な形式だ。
大鼕(おおどう)と呼ばれる樹齢1000年のケヤキをくりぬいて造られた直径157cmの大きな太鼓。
どちらの祭神も音楽にゆかりが深いため、「鳴り物」の神様として楽器の奉納も多いそうだ。
そんな楽器の中で最も大きなものが、こちらの大鼕(おおどう)。樹齢1000年のケヤキをくりぬいて造られた直径157cmにも及ぶ大きな太鼓で、明治時代に奉納されたもの。現在も、毎朝8:30の朝御饌祭(あさみけさい)や特定の祭典時に使用されているそうです。
宮御前社(みやみさきしゃ)
御霊石(おたまいし)という、漁師が引き上げて安産のご利益があると伝わる石。
本殿は1813年に吉川広家が再建したもので、国指定の重要文化財。
美保造り、比翼大社造りという二殿連棟の特殊な形式で、比翼入母屋造の吉備津神社(きびつじんじゃ)に似ている。
吉備津神社の名前が出てこないおじい。
若宮社。
鬼太郎っぽい。
青石畳通り
鳥居まで戻ってきた。
青石畳通り(あおいしだたみどおり)に入る。
青石畳通りは、江戸時代の参拝道の遺構だ。
江戸時代後期に、神社前の通りには越前石、本通りには凝灰岩が敷かれた。
浴衣姿の美女が通ると絵になりそうな風景だ。
平成18年に『未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選』に認定された。
北前船の寄港地として栄え、50軒ほどの回船問屋が集まっていた。
敷設されたのは文化年間から弘化年間(1804~1847年)の江戸時代後期です。この地は江戸時代中期以降北前船の西回り航路の寄港地として栄え、50件ほどの回船問屋が集まっていたといいます。その物資の積み降ろし作業の効率化のための舗装として、当地の海石を切り出して敷設したもの。
文人も数多く訪れ、高浜虚子、与謝野鉄幹・晶子、西条八十、吉井勇、河東碧梧桐、徳富蘇峰の歌碑がある。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も訪れたそうだ。
素晴らしい建物は、旅館の朝食会場だという。
多くの遊郭が軒を連ね、人口の四分の一を遊女が占めた時代もあったそうだ。
美保関資料館。
「猫歩き」みたいになってきた(笑)
佛谷寺
佛谷寺(ぶっこくじ)まで歩いてきた。
以前は三明院という名前で、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が隠岐へ流される際に宿泊したそうだ。
1332年には、後醍醐天皇も隠岐へ流される際に宿泊されたという。
当寺はもとは真言宗三明院という古刹でありましたが、中世後期に一度退転したものを、天正年間(1573~1592)願阿順慶上人が浄土宗仏谷寺として再興したものです。
本堂。
本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)
「八百屋お七」の恋人・小姓吉三(西運)の墓がある。
火事があれば庄之助と会えると思い込み、翌年3月2日夜放火して捕らえられ、同29日鈴ヶ森の刑場で火刑に処せられたという。
八百屋お七とは – コトバンク から引用
車で先に進んだ。
最高点の標高: 28 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 60 m
累積標高(下り): -60 m
総所要時間: 00:30:40