宮ノ越宿とは
宮ノ越宿(みやのこしじゅく)は、長野県木曽郡木曽町日義(ながのけんきそぐんきそまちひよし)にあった中山道36番目の宿場だ。
宮ノ越宿は福島宿まで2里28町30間、宿の延長は4町34間。慶長6年(1601)中山道宿駅が制定されたときに中山道69駅の一つとして指定されました。
宮ノ越宿 | 木曽谷とりっぷ から引用
宮ノ越宿脇本陣・問屋場跡
〒399-6101 長野県木曽郡木曽町日義本町
宮ノ越宿を歩いてみた【中山道】36番目の宿場!木曽義仲ゆかりの地!【旅行VLOG、レビュー】旗挙八幡宮!居館跡!平家討伐の祈願所!木曽11宿で唯一現存する客殿!歴史好き必見の史跡が多数残る!
本陣
2024年1月11日、この日は徳音寺(とくおんじ)に参拝した。
木曽義仲(きそよしなか)ゆかりの町だ。
木曽川(きそがわ)沿いにある宮ノ越宿(みやのこしじゅく)は、長野県木曽郡木曽町日義(ながのけんきそぐんきそまちひよし)にあった中山道36番目の宿場だ。
ゴミステーションもそれっぽいデザインになっている。
本陣(ほんじん)まで歩いてきた。
中山道(なかせんどう)の薮原宿(やぶはらしゅく)の次の36番目の宿場として整備された。
大火で宿場の多くは焼失したが、本陣の客殿部分は焼失を免れた。
明治16年2月に旧中山道宮ノ越宿は大火にあい、90軒の家が燃えています。この大火で本陣の主屋部分が焼失しますが、客殿部分は焼失を免れました。木曽11宿の中でたった1宿残されたこの客殿部分の再生工事が終了し、平成28年4月15日(金)より一般公開されています。中には宮ノ越宿の年代別の宮越宿割図の複製等が展示されています。観光でのご休憩・室内の見学等、お気軽にご利用ください。
宮ノ越本陣 – 木曽町公式サイト から引用
木曽町指定有形文化財に指定されている。
しかしこの日は平日で、閉館中(汗;)
建物の後ろは公園のようになっている。
木曽11宿のなかで客殿が現存するのはここだけだという。
舗装されていないが、駐車場もある。
脇本陣
脇本陣・問屋場跡まで歩いてきた。
田中邸。
1883年の大火の際に搬出された建具類と、隣村から運んだ建物部材を使用して再建された。
田中邸は平成9年に旧日義村に寄贈された住宅。現在の建物は、明治16年(1883年)の宮ノ越の大火の際に搬出された建具類と隣村から運んだ建物部材を使用して後に再建された建物を、さらに平成26年に修復復元工事したもの。
現在は観光の無料休憩所や、地域住民のイベント会場などに使用されています。
田中邸 – 木曽町公式サイト から引用
ここも閉館中。
明治天皇宮ノ越御膳水。
江戸時代末期に掘られた井戸。
明治天皇が本陣に宿泊した際、この水が献上された。
JR宮ノ越駅
JR宮ノ越駅に向かう。
駅舎はこんな感じ。
無人駅だ。
1910年に中央東線が延伸した際の終着駅だった。
内部はこんな感じ。
トイレは別棟。
ここから旗挙八幡宮(はたあげはちまんぐう)に向かう。
旗挙八幡宮
道祖神があった。
旗挙八幡宮(はたあげはちまんぐう)まで歩いてきた。
旗挙八幡宮は、木曽義仲が平家打倒の旗挙をした場所だ。
当神社は、平安時代末、幼少時代を木曽にて過ごした木曽義仲公が、養父中原兼遠と共に京へ上った時、源氏一門の崇敬の篤い石清水八幡宮を勧請し当地に祀ったと伝えられている。
当社の鎮座する一帯は、宮ノ原と呼ばれ、木曽義仲公が仁安元年(1166)13才で元服した折、館を当地に構えたといわれている。街道を見渡す段丘上にあり、吉蘇路(きそじ)が開通した時(713年)には、御殿(みどの)東野(とうの)徳原(とくばら)とともに官舎が設けられた交通の要所である。
当地にて、以仁王(もちひとおう)の令旨を受け治承四年(1180)千余騎を従えて、平家打倒の旗挙をした。爾来、旗挙八幡宮と呼ばれている。
また、社殿傍らの大欅は、木曽義仲公の元服を祝って植えられたとも旗挙をした時に植えられたとも云われている、樹齢約八百年以上の古木である。義仲七本欅といわれ、明治中頃までは村内に木曽義仲公ゆかりの大欅が残されていたが、現存するのは、この欅のみである。胸高周囲約12メートル、樹高約30メートル。落雷や台風の被害により幹は折れ、樹勢が衰えていたが、平成14年3月、日義村の文化遺産として枯幹の保全事業が行われた。大欅の傍らには、樹齢150年余りの2代目欅が大欅からの実生で生育しており、後継の御神木として木曽義仲公を末永く語り続けていく。
旗挙八幡宮 から引用
旗挙八幡宮
〒399-6101 長野県木曽郡木曽町日義2150
巨木は義仲七本欅といわれる木のひとつ。
樹齢800年以上。
木曽義仲の元服を祝って植えられたとも旗挙をした時に植えられたとも言われている。
こちらがその二代目で、樹齢150年。
このあたりに木曽義仲が館を構えたといわれている。
1180年に高倉宮以仁王(もちひとおう)の令旨を受け、平家打倒の旗挙をした。
由緒書き。
木曽義仲は幼名の駒王丸と呼ばれていた頃、父親の義賢がいとこの義平に討たれた。
難を逃れ、ここで中原兼遠(なかはら の かねとお)に育てられた。
京へ上った時、源氏一門の崇敬の篤い石清水八幡宮を勧請し、当地に祀ったと伝えられている。
館跡の石碑。
木曽義仲も、いとこの頼朝(よりとも)に殺された。
もしかしたら鎌倉幕府ではなく木曽幕府が成立していたかも知れない。
源義経の最期といい、歴史は残酷だ。
祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、木曽義仲(きそよしなか)
舗装されていないが、30台ほど停められそうな駐車場もある。
南宮神社
国道19号線沿いに歩いて行く。
木曽義仲が平家討伐の祈願をした南宮神社の前を通る。
巴淵に戻った。
最高点の標高: 887 m
最低点の標高: 850 m
累積標高(上り): 101 m
累積標高(下り): -102 m
総所要時間: 01:35:00