照国神社とは
照国神社(てるくにじんじゃ)は、鹿児島県鹿児島市照国町(かごしまけんかごしましてるくにちょう)にある神社だ。
祭神は、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)
御祭神の島津齊彬公は文化6年(1809)御出生、嘉永4(1851)43歳で薩摩藩・藩主を襲封され、安政5年(1858)薨去されるまで僅か7ヶ年間の治世であったが、その間の御事績は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残された。生前の御遺徳を慕い崇敬の念を寄せる万民の願いにより神社設立の運動が起り、文久2(1862)鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定し、仝3年(1863)5月11日勅命によって照國大明神の神号を授けられ一社を創建した。
照國神社
〒892-0841 鹿児島県鹿児島市照国町19−35
099-222-1820
駐車場
2022年4月5日、この日はインドカレーナマステでランチを済ませた。
そこから車で国道223号線を走る。
鹿児島空港を通過。
外輪山を下りていく。
桜島が見えてきた。
鹿児島市内に入る。
照国神社(てるくにじんじゃ)に到着。
駐車場はとても広い。
最高点の標高: 538 m
最低点の標高: 7 m
累積標高(上り): 586 m
累積標高(下り): -779 m
総所要時間: 02:19:03
参道
まず地図で現在地を確認。
鹿児島で最も大きな神社だ。
通ってきた鳥居も、建立当時は鉄筋コンクリート製の鳥居として日本一の規模だったそうだ。
1863年に天皇から島津斉彬に「照国大明神」の神号が授けられ、翌年社殿が竣工し照国神社となった。
御祭神の島津齊彬公は文化6年(1809)御出生、嘉永4(1851)43歳で薩摩藩・藩主を襲封され、安政5年(1858)薨去されるまで僅か7ヶ年間の治世であったが、その間の御事績は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残された。生前の御遺徳を慕い崇敬の念を寄せる万民の願いにより神社設立の運動が起り、文久2(1862)鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定し、仝3年(1863)5月11日勅命によって照國大明神の神号を授けられ一社を創建した。
翌元治元年(1864)社殿竣工、照國神社と称し、明治6(1873)県社に、仝15年(1882)別格官幣社に列格し、仝34年1901)正一位を賜り、今日では、鹿児島の総氏神様として、多くの人々に崇敬されています。
戦災で焼失したが、1958年に鉄筋コンクリートで再建された。
鹿児島の総氏神とされている。
参拝する。
祭神の島津斉彬(しまづなりあきら)は、西郷隆盛(さいごうたかもり)と並び明治維新の立役者だ。
絵馬のデザインは島津斉彬の花押だそうだ。
探勝園
探勝園(たんしょうえん)に向かう。
二の丸庭園であったものに手を加え、探勝園と名づけた。
島津斉彬はここで日本で初めてモールス信号による交信を成功させた。
二の丸庭園であった探勝園のあとには、斉彬が本丸と電信の実験を行った電信使用の地の碑や探勝園の碑がたっています。探勝園は、島津家第25代当主重豪公のときにつくられ、はじめは千秋園と呼ばれていました。27代当主斉興公のときに手を加え探勝園と名づけられました。すばらしい庭園であったといわれます。
この銅像は、島津久光(しまづひさみつ)
車で先に進んだ。
最高点の標高: 17 m
最低点の標高: 12 m
累積標高(上り): 12 m
累積標高(下り): -12 m
総所要時間: 00:11:46