善楽寺とは
百々山東明院善楽寺(ぜんらくじ)は、高知県高知市にある真言宗豊山派の寺だ。
第30番札所で、本尊は阿弥陀如来だ。
縁起によると、桓武天皇が在位(781〜806)されていたあとの大同年間に弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として、善楽寺を開創され霊場と定められた。
以来、神仏習合の寺院として法灯の護持につとめ、神仏の信仰を啓蒙して栄えている。とくに土佐2代藩主・山内忠義公のころには武門の庇護をうけて寺は興隆し、繁栄をきわめた。だが、明治新政府による廃仏毀釈の難を受けて寺運は一変し、昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。その後、2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期を経て、平成6年1月1日を以って「善楽寺」は第三十番霊場として現在にいたっている。
参拝
この日は、まず土佐神社に参拝した。

土佐神社 ⇒ 輪抜け様で有名な土佐一ノ宮
土佐神社とは
土佐神社は、高知県高知市の土佐国一ノ宮だ。
祭神は味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、一言主神(ひとことぬしのかみ)...
善楽寺は、この土佐神社に隣接している。
当山は平安時代初期、弘法大師様が御巡錫の際、高鴨神社(今の土佐一宮神社)の森厳幽遠なる霊域が深く御意に適われ、北部一帯の渓谷が百谷あれば入定の地に定めんと谷々を検分されましたが、九十九谷しかなく、当山を開創されて一谷を補い、山号を百々山(どどざん)と名付けられ四国第30番霊場とお定めになられました。以後、長曾我部氏や山内公の帰依深く明治の廃仏毀釈まで法灯を維持していたと伝えられています。
四国第三十番霊場 善楽寺 から引用
実はもともと第30番札所ではあったが、明治の廃仏毀釈で善楽寺は廃寺となり、安楽寺が第30番札所となった時代もあるそうだ。
明治の廃仏毀釈で当山善楽寺は廃寺となり、明治9年にいち早く復興を遂げた安楽寺が、30番の万灯を絶やしてはならぬと公許を経て30番霊場の業務を代わりに行っておりました。善楽寺は昭和5年に心ある一宮村民の尽力により無事再興され、平成6年に四国第30番は善楽寺、安楽寺は30番の奥の院と相成り今日に至っております。
四国第三十番霊場 善楽寺 から引用
土佐神社の駐車場から、正門に向かう。
まず、巨大な十一面観音像が出迎えてくれる。
本堂は、一番奥だ。
本堂の脇に、仏足跡(ぶっそくせき)が据えられている。
古いものは紀元前4世紀に遡るとも考えられている。また仏足石は釈迦のものとは限らず、シバ神の足跡も信仰の対象とされている。両足を揃えたものがより古い形式のもので、片足のものは比較的新しく紀元後のものと考えられる。実際の足跡ではなく三十二相八十種好の説にもとづいて、足下安平立相、足下二輪相(下記参照)などが刻まれていることが多い。古代インドでは像を造る習慣がなかったため、このような仏足石や菩提樹などを用いて、釈迦やブッダを表現した。
仏足石 – Wikipedia から引用
その横の大師堂。
境内
境内は広く、明るくて開放感がある。
参拝者も多い。
トイレもきれいだ。
参拝後、武市半平太の旧宅に向かった。

武市半平太の旧宅 ⇒ 偉大な志士の墓に参る
武市半平太とは
武市半平太(たけちはんぺいた)は、幕末の志士だ。
土佐勤王党を作り、尊皇攘夷を唱えたことで知られる。
武市瑞山(たけち...
感想
土佐神社と隣接していることで、両方参拝することが容易だ。
どちらも歴史が古く、趣がある。
札所として安楽寺との綱引きの歴史なども興味深い。
ぜひ参拝して欲しい寺だ。