金剛峯寺とは
高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山(わかやまけんいとぐんこうやちょうこうやさん)にある高野山真言宗の総本山だ。
真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創した。
真言密教の聖地、弘法大師入定信仰の山であり、世界遺産に指定されている。
高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。
六時の鐘
2022年1月4日、この日は総持院に宿泊していた。
チェックアウトし、徒歩で奥の院まで歩いて行く。
六時の鐘の下を通っていく。
六時の鐘は福島正則(ふくしままさのり)が建立したもので、偶数時に鳴らされている。
伽藍の入り口の高い石垣にある鐘楼は、福島正則公が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立されました。福島候といえば、豊臣秀吉と柴田勝家(かついえ)との戦いで、賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)といわれた、豊臣家きっての勇将でした。寛永7年(1640年)に、正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘がかなまじり文であることで有名です。現在でも午前6時より午後10時まで、偶数時に時刻を知らせています。
案内看板でルートを確認。
奥の院まで往復した後、女人堂経由で高野山口に向かう。
ロングコースだが、昨日の20km越えよりは楽だ(苦笑)
金剛峯寺
金剛峯寺に到着。
「金剛峯寺」という名称は、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けたと伝えられている。
高野山は「一山境内地」で、総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指す。
高野山の本堂は、壇上伽藍の「金堂」が一山の総本堂とされる。
現在の金剛峯寺は本坊で、高野山第二世座主真然大徳(伝灯国師)の廟所となっている。
経蔵(きょうぞう)は1679年の建立。
門をくぐって左手に見えますのは経蔵で、延宝7年(1679年)3月、大阪天満の伊川屋から釈迦三尊と併せて寄進されたものです。経蔵は重要なものを収蔵するところなので、火災が発生しても安全なように主殿(しゅでん)とは別に建てられました。
鐘楼は1864年再建とされている。
門をくぐって右手に見えます鐘楼は、金剛峯寺の前身であります青巌寺の鐘楼です。その構造形式から万延元年(1860年)に大火(たいか)で類焼後、大主殿などの建物と共に鐘楼も元治元年(1864年)に再建されたものと考えられます。
桁行・三間、梁行・二間、袴腰付入母屋造り(はかまごしつきいりもやづくり)の形式で、県指定文化財となっています。
寺紋は桐紋と巴紋で、桐は豊臣家の家紋、巴は地主神として祀られている天野社の紋。
1593年に秀吉が亡母の菩提のために建立した青巌寺を併合した。
拝観料は1,000円だが、この日は無料開放されていた。
おばあが喜んでいます。
襖絵はダメだが、その他は撮影OKで嬉しい。
この玄関は、かつては皇室、高野山の重職に就いている僧しか利用できなかったという。
鐘楼を見て振り返りますと、囲いがされた入り口が見えます。ここは金剛峯寺の表玄関にあたるところで大玄関といいます。この門も、先の正門と同じく天皇・皇族や高野山重職だけが出入りされました。
大玄関をさらに通り過ぎますと、もう一つ玄関があります。これは小玄関と呼ばれ、高野山では上綱(じょうこう)職の方々がもっぱら使用されます。一般の僧侶はといいますと、昔は裏口より出入りましたが、現在は一般参詣入口を利用しています。
樹齢2870年の切り株。
輿があったが、説明看板が老眼で読めない(汗;)
この日は奥の拝観はできなくて残念。
今日は多いって、昨日から降っていないじゃない。
皇族が参詣した際に使う書院上段の間は、壁が総金箔押しで超豪華だった。
以前は天皇、上皇が登山された際の応接間として使用された所で、現在は高野山の重要な儀式に使用されています。
この上段の間には上々段の間と装束の間があり、壁は総金箔押しであり、天井は折上式格天井(おりあげしきごうてんじょう)の書院造りの様式になっています。上段右側にある小さな房の着いた襖は「武者隠し」といい、襖の向こうには一室の部屋があります。
私も描いて奉納しようかしら。
根本大塔などの伽藍を整備した空海の甥の真然が祀られている。
囲炉裏の間には、弁財天さまが祀られている。
この部屋は囲炉裏の間で、土室と呼ばれています。土室とは「土を塗り固めて作った部屋」という意味です。高野山はご存じのように、冬場は非常に厳しい土地です。暖をとるための工夫として土壁で囲んだ部屋の中に囲炉裏を設け、できるだけ保温効果を高め、風寒(ふうかん)をしのぎました。
囲炉裏は天井まで4本の柱と壁が立ち、煙を天井から屋根の外に抜くようにできています。火袋には小棚が設けられており、弁財天さまをおまつりしています。ただし、その由来などについては伝わっていません。
台所もとても広い。
3基で約2000人分の米を炊くことができるそうだ。
江戸期以降、実際に大勢の僧侶の食事を賄ってきた場所です。柱や梁も煤で真っ黒になっています。水飲み場は湧き水を高野槇の水槽に溜め、大きな「かまど」は現在も使われます。炭をおこす場所には防火対策として大きな煙突が配置されています。 天井からつり下ろした台には食物が保存されていました。天井からつることで風通しをよくし、さらに紙を垂らすことによってネズミの侵入を防いでいました。
一つの釜で約七斗(98キログラム)のご飯を炊くことができる大釜が三基並んでいます。三つで一度に二石(約2,000人分)のご飯を炊いたものです。昭和50年代まで、年末の餅つきの際に使われていました。二石釜の真上には行灯が釣られ、正面には台所の神様である三宝荒神をおまつりしています。
興奮しすぎて、参拝することを忘れていた(汗;)ので、もう一度回ってきた。
参拝を終え、先に進んだ。