鞆の浦とは
鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市鞆町(ひろしまけんふくやましともちょうとも)にある景勝地だ。
「鞆の浦」とは「鞆にある入り江」という意味だ。
沿岸部と沖の島々一帯は「鞆公園」として国の名勝および国立公園に指定されている。
鞆の浦は、その風光明媚な姿ゆえにハリウッド映画のロケ地やアニメの舞台にも選ばれています。観光に訪れれば歴史ある町並みや仙酔島を浮かべる瀬戸内海の優美さに魅了されるでしょう。そんな鞆の浦の、あなたしか知らない瞬間を写真に飾ってみませんか。
広島県営鞆町鍛冶駐車場
2022年2月26日、この日はファミリーロッジ旅籠屋井原店に宿泊していた。
そこから車で、広島県営鞆町鍛冶駐車場にやってきた。
広島県営鞆町鍛冶駐車場
広島県福山市鞆町136−143
広島県営鞆町鍛冶駐車場は広島県福山市鞆町(ひろしまけんふくやましともちょうとも)にある、景勝地の鞆の浦にほど近い駐車場だ。
駐車場はとても広い。
最高点の標高: 137 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 182 m
累積標高(下り): -217 m
総所要時間: 00:44:49
仙酔島渡船
まず案内看板でルートを確認。
仙酔島(せんすいじま)渡船乗り場まで歩いてきた。
仙酔島(せんすいじま)は無人島で、海水浴場やキャンプ場が整備されている。
鞆の浦から船で5分のところに浮かぶ無人島「仙酔島」。1934年,日本で最初の国立公園に指定された「瀬戸内海国立公園」を代表する景勝地の1つです。
仙酔島には仙人が住んでいたという伝説があり,「仙人が酔う程に美しい島」というのが島の名前の由来と言われています。江戸時代の学者・頼山陽は,仙酔島や瀬戸内海の美しさを見て「山紫水明」という言葉を生み出しました。
島内には,国民宿舎などの宿泊施設や海水浴場・キャンプ場,2種類のハイキングコースも整備され,見どころ満載です。
鞆の浦の看板の前で記念撮影。
渡船は「いろは丸」を模したデザイン。
坂本龍馬がつくった海援隊の「いろは丸」は、鞆の浦沖で紀州藩の船と衝突して沈没した。
万国公法に基づいて紀州藩から多額の賠償金をとることに成功したことで、坂本龍馬の名は知れ渡った。
まるで観光船だが、福山市営の渡船なので運賃は大人240円、こども120円。
次の方につきましては渡船運賃が減免(無料)となります。
乗船時に減免対象となる事が確認できる書類をご提示ください。(1) 身体障害者手帳及び療育手帳,精神障害者保健福祉手帳の交付を受けた方並びに介護者の方
(2) 市の区域内に住所を有する65歳以上の方なお,運賃及びその減免の詳細につきましては「福山市渡船条例」及び「福山市渡船条例施行規則」をご参照ください。
内部はこんな感じ。
いよいよ出港だ。
鞆の浦は日本初の国立公園の瀬戸内海国立公園を構成する。
「鞆公園」として国の名勝にも指定されている。
鳥居が見えるのは弁天島。
仙酔島
仙酔島に到着。
まず待合所にある案内看板でルートを確認。
港から歩いて行く。
瀬戸内海国立公園の一部で、明治天皇も訪れたという。
海水浴場まで歩いてきた。
広いキャンプ場がある。
仙人ヶ丘まで歩いてきた。
急坂だとおばあが怒っています。
普段は優しいおばあなんです。
仙人ヶ丘の標高は68m。
赤岩展望台に到着。
ここから下ってきた。
海岸沿いに船着場に戻る、予定だったのだが・・・
通行止め(汗;)
元来た道を上り返すしかない。
おばあは怒りませんか?
鞆の浦
港に戻ってきた。
港まで歩いてきた。
住吉神社に力石があった。
沼名前神社に20個、住吉神社に3個、奉納されている力石です。すべて花崗岩製で楕円状を呈し,重さは61貫(230kg)から32貫(118kg)と様々で、石には重さと奉納者名などが刻まれています。製作年代のわかるものは5個あり、天保15年(1844年)から安政5年(1858年)までの年号が刻まれています。
鞆の津の力石 – 鞆物語 から引用
駐車場に「神業」駐車している車があった。
常夜灯まで歩いてきた。
いろは丸展示館。
常夜灯は1859年に建てられた灯台で、鞆の浦のシンボルとされている。
鞆港西側の雁木の南側に立つ常夜灯。鞆の浦のシンボルです。1859年に建てられた船の出入りを誘導してきた灯台で,高さは5.5m,海中の基礎の上から宝珠まで11mあり,現存する江戸時代の常夜灯としては最大級の大きさを誇ります。
雁木や船番所とともに鞆の浦の港の歴史を物語っています。
寺社巡り
古い街並みを歩いて行く。
南禅坊まで歩いてきた。
阿弥陀寺。
法宣寺。
静観寺。
山中鹿之助首塚。
山中鹿之助は、尼子十勇士の1人だ。
山中鹿之助は、毛利氏に滅ぼされた尼子十勇士の1人。
天正六(1578)年7月3日、尼子勝久、氏久兄弟は切腹し、山中鹿之助は囚われの身になりました。7月17日の護送中、高梁川と成羽川の合流点にある「阿井の渡し」で殺害され、備中松山城に在陣していた毛利輝元は、そこで首実検をする。鹿之助の首は備中松山城から鞆城へ送られ、当時の将軍・足利義昭も首実検したと伝えられています。鹿之助の首は、この首塚の近くに埋葬されたと伝えられており、現在でも静観寺では毎年7月17日に「首塚祭」の供養が行なわれている。
山中鹿之助首塚 – 鞆物語 から引用
妙蓮寺。
顕政寺。
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)に参拝する。
神功皇后が立ち寄ったことで創基されたという。
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され、大綿津見命(おおわたつみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)をお祀りしています。今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。
リンク集 から引用
小烏神社。
このあたりは福島正則が整備した鍛冶屋町だという。
小烏神社は、地元の人たちから「こがらっさん」の愛称で親しまれている神社。福島正則が鞆の浦の城下町を整備した際に、鍛冶工をこの地域に集めて鍛冶屋町を造りました。その中心にあるのが小烏神社です。創建の年代はよくわかっていませんが、室町時代の後期に、鍛冶を生業とする人たちが、氏神様として祀ったのが起源ではないかといわれています。
小烏神社 – 鞆物語 から引用
小烏の合戦の地だという。
1349(正平4)年、足利尊氏の弟・直義の義子であった直冬は、中国(長門)探題として鞆の浦の大可島城に赴任していましたが、ちょうどその頃、高師直(こうのもろなお)と直義が対立。のち、直義が高師直によって追われたことを知った直冬は、高師直・尊氏と兵馬を交えることになります(小烏の合戦)。
その骨肉相食む合戦の結果、鞆の浦の刀剣鍛冶が発達したのです。
小烏神社 – 鞆物語 から引用
車で先に進んだ。
最高点の標高: 50 m
最低点の標高: 0 m
累積標高(上り): 154 m
累積標高(下り): -148 m
総所要時間: 01:56:15