松前城とは
松前城(まつまえじょう)は、北海道松前郡松前町松城(ほっかいどうまつまえぐんまつまえちょうまつしろ)にある城跡だ。
公式には福山城(ふくやまじょう)と記されたが、当時から備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼ばれていた。
松前家の前身蠣崎(かきざき)氏は、大館を拠点とし、5世慶廣(よしひろ)のとき、豊臣秀吉、徳川家康によって大名に列せられ、姓を松前と改めた。初代藩主となった慶廣は、慶長5年(1600)大館の南方にある、福山台地に新城(福山館)を築き、6年の歳月を費やし、慶長11年(1606)に完成した。
嘉永2年(1849)、幕府は蝦夷地近海に出没する外国船に脅威を感じ、要害を固めるよう、17世崇廣(たかひろ)に特旨をもって築城を命じた。 崇廣は、翌3年、高崎藩の兵学者市川一学に設計させ、家老松前内蔵廣当(くらまさひろ)を総奉行として(のちに家老下国安芸崇教があたる)工事に着手し、5年の歳月を経て、安政元年(1854)新城が竣工した。
松前氏城跡福山城跡 | まつまえの文化財 から引用
松前城跡
北海道松前郡松前町松城144
0139-42-2216
駐車場
2022年7月11日、この日は道の駅上ノ国もんじゅで車中泊していた。
そこから車で、国道228号線を走る。
大島などが見える、絶景ドライブだ。
松前町の市街地に入る。
松前城(まつまえじょう)にやってきた。
駐車場は無料だ。
最高点の標高: 97 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 555 m
累積標高(下り): -536 m
総所要時間: 00:52:46
搦手門跡
国道228号線から入ってすぐの所にある。
岩木山が見えている。
本州は間近だ。
朝8時なのに暑いと、おばあが怒っています。
なんでも怒っている、怒っていると言わないの。
搦手門跡を見て、先に進む。
多聞櫓跡。
入館料は360円。
しかし9時からと言うことで、まだ閉まっていた(汗;)
鎌倉翁の顕彰碑など、いろいろある。
年表があった。
1432年に阿吽寺が開山。
1514年に大舘に徳山館を築き、福山城が築城されるまで政庁とした。
福山城は、1606年に完成した。
西洋の脅威に対抗するため1855年に新城が竣工した。
日本における最後で、北海道内で唯一の日本式城郭とされる。
観光案内所も閉まっていた。
まず案内看板でルートを確認。
7月だというのにアジサイが咲き始め。
桜の名所として名高い。
「日本さくら名所100選」に選定されている。
約250種の桜があるそうだ。
法源寺
法源寺(ほうげんじ)まで歩いてきた。
山門が重要文化財に指定されている。
元は奥尻島で開基されたが、福山館の完成後、1619年までに現在の位置に移った。
文明元年(1469)夏、若佐の禅僧随芳(ずいほう)が奥尻島に草庵を結び、法源寺と称した。それから20年後の延徳2年(1490)、奥尻の法源寺は大館に移され、松前山法源寺と称し、松前家始祖信廣、2世光廣の菩提寺であった。慶長11年(1606)福山館の完成後、大舘にあった寺町とともに、法源寺も元和3年(1617)から同5年(1619)にかけて、現在の位置に移った。
法源寺山門 | まつまえの文化財 から引用
本堂は1868年の箱館戦争で焼失してしまった。
龍雲院
龍雲院にやってきた。
惣門は1851年の建立だという。
本堂、庫裏は1842年の建立で、鐘楼は1846年だ。
血脈桜
血脈桜(けちみゃくざくら)は、伝説からその名が付いたそうだ。
上人は「さては昨晩の娘さんは、この木の精であったか」と悟り、伐採を取りやめて娘とサクラの木のために懇ろな供養を執り行った[1][2][3][9]。上人のもとに現れた娘については、静枝の霊であったともいわれる[9]。それ以来、このサクラは「血脈桜」の名で呼ばれるようになった[1][2][3][9]。
血脈桜 – Wikipedia から引用
光善寺境内に咲いている。
血脈桜(けちみゃくざくら)と読むそうだ。
松前一の桜の古木で、推定樹齢300年。
参拝する。
松前神社
松前神社まで歩いてきた。
屋根が赤い。
祭神は、武田信廣公(たけだのぶひろこう)
武田信広は、1454年、コシャマインの戦いに勝利した松前藩の祖だ。
参道の先に、松前城の天守閣が見えている。
福山城(ふくやまじょう)が正式な名称だ。
車で先に進んだ。
最高点の標高: 31 m
最低点の標高: 16 m
累積標高(上り): 33 m
累積標高(下り): -33 m
総所要時間: 00:31:44