大洲神社
この日は臥龍山荘を見学した。
そこから大洲神社(おおずじんじゃ)に歩いてきた。
大洲城の東方に位置し小高い社が商売繁盛の神・家内安全の神・安産の神・大漁満足の神としられた大洲神社です。 宇都宮家譜によると、元弘元年(1331年鎌倉時代)宇都宮豊房公が大洲城を築きし時、城内総鎮守神として下野國二荒山(ふたちやま)神社より勧請し、太郎宮として斎祭される。戸田・藤堂・脇坂を經、元和3年加藤貞泰城主となり、先例により祈願所と定めて崇敬し、以下歴代の藩主の崇敬篤く境内地・社殿の造営・修復・祭器具等の寄進がたびたびされ、旧縣社に列せられる。
大洲神社 « 愛媛県神社庁 から引用
駐車場はとても広い。
鳥居をくぐる。
拝殿。
内部はこんな感じ。
ちょうどお宮参りの人が参拝していた。
摂社の稲荷神社。
さらに若宮神社、天満神社、水金神社、祖神社、火防神社とたくさんの摂社が並ぶ。
参拝する。
手水舎と由緒書き。
石段を下りる。
とても長い石段だった。
おはなはん通り
大洲神社から古い街並みの中を歩いていく。
古民家がホテルになっていて、ちょっと泊まりたくなる。
非常に美しい街並みだ。
おはなはん通りには、花が飾られていた。
肱南の市街地の東端に、「おはなはん通り」があります。名前は昭和41年のNHK朝のテレビドラマ「おはなはん」のロケが行われたことから由来しています。 ここには、江戸時代の町割と家並等が忠実に残されており、当時の庶民の生活の一端を知ることができます。北側の蔵並びは商屋のもので、南側は武家屋敷でした。また、この通りは、商屋と武家屋敷の境界にあたるためと、城より臥龍の地にある藩主の別邸へのお成道とし使用されていたため他の通りよりも広くなっていると言われており、他にも商屋の火事が武家屋敷に飛び火しないように配慮していたとも考えられています。
大洲まちの駅あさもや
大洲まちの駅あさもやに到着。
平成14年4月12日にオープンした大洲まちの駅「あさもや」は、市内観光の出発点。 場所は、国道56号大洲市役所前交差点から東に150m。観光客の皆様が、ここに車・バス等を置いて、町の中を巡ってもらうためのスタート&ゴールという位置づけから「まちの駅」と名づけました。 施設内には、観光案内所、レストラン、トイレ、物販コーナー等があり、町並みコンシェルジュも常駐。大洲観光の総合窓口です。
ここでジュースを買って、しばし休憩した。
肱川に向かって歩く。
ポコペン横丁
ポコペン横丁に到着する。
昭和レトロな街並みを再現してる。
あの懐かしさが漂う横丁を再現しています。 中華そば、コロッケ、焼き鳥、ラムネ、おもちゃ、骨董品、昔遊び等のお店が軒を連ねる昭和30年代のレトロ漂う空間をぜひ歩いてみてください。 時にはステージライブもありますよ。
しかし新型コロナウィルスのせいで閉店中。
それでも懐かしい看板が見られてラッキーだった。
おおず赤煉瓦館
おおず赤煉瓦館に到着。
おおず赤煉瓦館は、明治34年(1901年)12月に大洲商業銀行の本店として建築されました。建物は主にイギリス積みの煉瓦建築で、屋根には和瓦を葺き、鬼瓦に商の字を入れた和洋折衷の様式が特徴です。 当時は、木蝋や製糸の製造、そして舟運による流通の拠点として大洲が隆盛を極めた時代でした。また、「文明開化」のもとに西洋文化が時代を席捲したことは周知のことですが、大洲においても例外ではありませんでした。 大洲の経済的繁栄や当時の文化水準の高さは、臥龍山荘などの歴史遺産にもうかがい知ることができますが、やはり「明治」という時代の斬新さと「大正」という浪漫あふれる時代の風を強く感じさせてくれるのは、この赤煉瓦館でしょう。
内部は土産物店になっている。
隣に金庫室があり、現在は資料館として使われていた。
金庫室らしくとても頑丈そうな扉があった。
その先には、英国風の庭園がある。
さらに街中を進んでいく。
古い建物を残すことに、徹底している。
駐車場まで戻ってきた。
車で、ランチを食べる店に移動した。
感想
とても綺麗な町だった。
明治、大正、昭和と懐かしい建物が保存されており、新築された建物もそのイメージを踏襲していて街並みに統一感がある。
道路も石畳で、とても美しい。
新型コロナウィルスのせいでいろいろ大変なようだったが、収束後は多くの観光客に来てもらいたい場所だ。
最高点の標高: 37 m
最低点の標高: 10 m
累積標高(上り): 179 m
累積標高(下り): -180 m
総所要時間: 02:07:02