若宮八幡宮とは
若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)は、高知県高知市長浜(こうちけんこうちしながはま)にある神社だ。
祭神は、誉田別命(ほむだわけのみこと)=応神天皇、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后、市杵島姫命(いきちしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田心姫命(たごりひめにみこと)
文治元年3月、平氏を檀ノ浦に滅ぼした源頼朝公は、全国に守護・地頭を置き鎌倉幕府の基礎を固めました。同時に、祖父源為義公の冥福を祈り、源家の家運長久を願って京都六條の為義邸跡にあった六條左女牛若宮(ろくじょうさめうしのわかみや 六條左女牛八幡宮)に石清水八幡宮の御神霊を御勧請し、ここに新たに六條若宮八幡宮を御創建されました。
その際、土佐国吾川郡の南部一円を六條若宮の神領地として奉納せられ、神地鎮護の神として現在の地に御創建されたのが若宮八幡宮です。時に文治元年(1185年)12月30日のことでした。以上のことは、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に記されています。
若宮八幡宮について から引用
長宗我部元親が初陣の際に必勝を祈願した場所として知られる。
創建後、鎌倉、室町の各時代を通じ武家尊奉の神社として大いに尊崇せられましたが、特に戦国時代に入るや、永禄3年(1560年)長宗我部元親公が父国親公に従い本山氏の支城であった長浜城を攻略した際、当社の馬場先に陣所を構え一夜心静かに戦勝を祈願し初陣にのぞみましたところ、見事にこれを討ちやぶることが出来ました。元親公はまだ22歳の若武者でした。このことから、当社を出陣祈願の社と定め、社殿を出蜻蛉(でとんぼ)式建築に改めたことは有名です。とんぼは一名勝虫ともいわれ、昔から縁起のよい虫とされています。
元親公の四国平定の途は、実に当神社の馬場先よりはじまったと申せましょう。
若宮八幡宮について から引用
自膳工房れお
この日は自宅を車で出発し、自膳工房れお(じぜんこうぼうれお)にやってきた。
このお店は自分で注文をレシートに記入してオーナーに渡すシステム。
伝票だけでなく、水やお手拭き、デザートなどもセルフサービスになっている。
おかずは魚と肉が選べ、この日は魚はサバの酢だれかけだった。
ごはんも白米とキビごはんが選べる。
この日は2020年12月23日で寒かったので、暖炉に火が入っていた。
料理は小鉢がついた、女性好みの内容。
食後にコーヒーを頼んだが、ここは焼き物教室も開催しているので手作りカップで出される。
ケーキも頼んだ。
ケーキはセルフサービスでケースから取ってくるシステム。
干し柿とクルミのタルトをチョイスした(安くなってたので)
若宮八幡宮
食事を終え、若宮八幡宮の駐車場にやってきた。
鳥居がとても大きい。
天正14年(1586年)豊臣秀吉に従軍し島津討伐に向かう際、元親は戦勝祈願を行った。この時、軍旗が鳥居の笠木に引っかかって落ちた。衆人はこれを不吉としたが、元親は「敵を笠にかけて討伐する吉兆である」と出陣した。しかし、戸次川の戦いで嫡子信親を失うなど惨敗となった。憤慨した元親は帰国後、この鳥居を不祥のものとして解体し海に流したという。幕末の慶応元年(1865年)に地震があった際に鳥居の基礎が浮き出たという。これは神意であると明治3年(1870年)木製にて鳥居を再建した。老朽化により昭和11年(1936年)に建て替えられた。現在の鳥居は、木製鳥居が老朽化したので昭和55年(1980年)鉄筋コンクリート製にて建て替えられたものである。
拝殿。
摂社の天神宮にも参拝する。
以前は「槍通す(やりとおす)」という槍が立てられていて、それに輪投げの要領で輪を通すことができると願いが叶う、という場所だが、新型コロナウイルスのせいか無くなっていた。
摂社の三社神社に参拝。
三座神社にも参拝する。
長宗我部元親の銅像
参拝を終えて、参道を進む。
どろんこ祭りで使われる田んぼが右手にある。
土佐の男は顔に泥を塗られて喜ぶのだ(苦笑)
この神社で有名なのは、毎年4月上旬に行われる「どろんこ祭り」である。五穀豊穣・無病息災を祈願し、女性が男性に泥を塗り、しかも塗られた男性は「ありがとうございます」とお礼をすることが昔からのならわしで、その一年間は無病息災といういわれがある。
若宮八幡宮 – 高知市公式ホームページ から引用
長宗我部元親の銅像までやってきた。
銅像の足下には、当時の四国の勢力図が描かれている。
若宮八幡宮の御旅所まで歩いてきた。
高知海岸
ここから桂浜に向かって歩いて行く。
高知海岸の看板が立っている。
この通りは花街道と名付けられていて、地域のボランティアが世話をしてくれている。
一領具足の碑
一領具足の碑までやってきた。
元親が安芸国虎攻めにあたり、兵力増強に思いついたのが「一領具足」である。一領具足とは屯田兵のことである。平素は田を耕し、城から動員の貝が聞こえわたってくると、クワ・スキを放り出し、その場から出陣していく。具足は一領、馬は替馬なしの一頭で戦場を走り回るため、「一領具足」という呼称ができた。
関ヶ原後に入城してきた山内家に対し長宗我部の領地を確保するよう迫り武力鎮圧された一領具足を祀っている。
長宗我部家の後継として土佐を与えられたのは山内一豊だったが、長宗我部家の遺臣団は新領主の登場を必ずしも歓迎しなかった。竹内惣右衛門を中心とする一領具足は、浦戸城の引渡しを拒否し、盛親に旧領の一部(土佐半国という)を与えることを要求した(浦戸一揆)。山内一豊は弟の山内康豊を鎮圧に派遣。遺臣団側は浦戸城に篭城して抵抗したが、城内の裏切りによって開城、降伏した。273人の一領具足が斬首され、その首は塩漬けにされて大坂の井伊直政のもとへ送られたという。
一領具足 – Wikipedia から引用
遊歩道
参拝を終え、坂道を上がっていく。
龍馬記念館が見えてきた。
ここは長宗我部元親の城だった浦戸城趾にある。
遊歩道に入り、桂浜(かつらはま)に向かう。
海津見神社(わたつみじんじゃ)に到着。
参拝後、龍王岬展望台へ向かう。
この塔のようなものは実は神社で、今回までその事実を知らなかった俺(汗;)
坂本龍馬の銅像までやってきた。
戎神社と稲荷神社
浦戸大橋(うらどおおはし)が見えてきた。
戎神社(えびすじんじゃ)に参拝。
稲荷神社に参拝。
浦戸港
浦戸港(うらどこう)を歩いて行く。
若宮八幡宮まで戻ってきた。
最高点の標高: 49 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 518 m
累積標高(下り): -552 m
総所要時間: 02:42:33