仁ノ八幡宮とは
仁ノ八幡宮(にのはちまんぐう)は、高知県高知市春野町仁ノ沖(こうちしはるのちょうにのおき)にある神社だ。
祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、姫大神(ひめおおみかみ)
1502年の創建で、秋祭りでは、真剣で踊る太刀踊りが奉納される。
500年の歴史があるともいわれる「仁ノ太刀踊り」。「てんぐ役」が塩をまいてお清めをした後、剣を腰に差した踊り子8人が2列に分かれ真剣な表情で舞った。歌と太鼓やかねに合わせ剣を振り、「房」と呼ばれる紙束と交わると、白い紙が勢いよく宙に散った。
「長宗我部元親の時代から続いているという仁ノの太刀踊りは、真剣を激しく振り回すのが特徴」と渡辺義章宮司(77)。過疎化に伴って年々担い手が減っているといい、現在太刀踊りの代表を務める小島一哉さん(50)は「真剣は重く、息を合わせて踊るのは難しい。代々伝わるこの太刀踊りの灯をともし続けていきたい」と話した。
この太刀踊りは、高知市指定民俗文化財だ。
高知県下の太刀踊りの中でも、古い歴史と伝統を持った踊りとされています。この太刀踊りの由来については、次のような話があります。
土佐戦国の七雄の一人で、高岡郡を拠点としていた津野元実は、幡多郡中村を拠点としていた一条氏との戦いに備え、須崎の西に岡本城を築きました。この城は難攻不落といわれ、一条氏もこれを攻めましたが、なかなか陥落しませんでした。そこで一条氏は策を講じ、村の神祭のときに若者を集め、城の近くで踊らせました。城兵は城を出て、その踊りを夢中になって楽しんでいましたが、そのすきをぬって一条氏の軍勢は城に入り、火をつけてこの城を陥れたといわれています。
このときから太刀踊りがはじまったとされ、仁ノ地区では明治初期から踊りはじめられたということです。
駐車場
この日は森山八幡宮に参拝した。
その後、車で仁ノ八幡宮にやってきた。
仁ノ八幡宮には駐車場があるのだが、細い路地を入っていかねばならず、さらにこの道を大型ダンプが通り抜けるため、使いたくなかった。
そこで近くの道路が広くなったところに停めて、徒歩で仁ノ八幡宮に向かった。
水神社
岩山の向こうの森が、仁ノ八幡宮の境内だ。
この岩山にはしめ縄が張られているので、なんらかのいわれがあるのだろう。
その麓には、水神社(みずじんじゃ)。
祭神は、水波能売神(みつはのめのかみ)と書かれている。
つまり罔象女神で、これは天闇靇大神を祭神とする荒倉神社と関係があるのかも知れない。
仁ノ八幡宮
こちら側から来ると、すぐに拝殿だ。
改元直後ということで、令和の幟が立つ。
内部はこんな感じ。
扁額には八幡宮と書かれている。
万葉神社
拝殿の横に回り込んでみた。
多くの俳句や和歌が並んでいる。
ここは万葉神社(まんようじんじゃ)だ。
万葉神社の由緒書き。
祭神は衣通姫(そとおりひめ)、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、山部赤人(やまべのあかひと)だ。
祭神を歌った句碑。
天満宮と合祀されていることから、この万葉神社は学問の神様とされているそうだ。
本殿。
というか、祠だ。
柿本人麻呂の句も掲示されている。
貴布祢神社
貴布祢神社(きふねじんじゃ)も鎮座する。
祭神は、天之水分神(あめのみくばりのかみ)、地之水分神(ちのみくばりのかみ)
「古事記」にみえる神。
速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神の子。山頂の水の分配をつかさどる神。国之水分神と対をなす。
境内
拝殿のすぐ前に、集会所がある。
参道の木には、しめ縄。
なかなかの巨木だ。
灯籠の下には、牛が寝そべる。
天満宮が合祀されているからだろう。
大正8年と刻まれた手水舎。
狛犬。
逆立ちをしている。
手水舎。
蛇口式だ。
なにやら巨岩がある。
お百度石。
さらに狛犬。
そして鳥居の手前には、さらにさらに狛犬。
まだ新しそうだ。
反対側は、少し苔むしている。
由緒書き。
句碑が建っている。
参道正面。
扁額。
反対方向に参拝したことになる。
参拝を終え、南風に向かった
感想
なかなか大きな神社で、いくつかの神社が境内社になっているので見どころ満載だ。
特に元号が令和になり、万葉集が見直されて仁ノ八幡宮内にある万葉神社も、今後注目されるかも知れない。
仁淀川河口にほど近いので、ぜひ参拝したい場所だ。