耳なし地蔵とは
耳なし地蔵(みみなしじぞう)は、高知県高岡郡越知町越知丙(こうちけんたかおかぐんおちちょうおちへい)にある祠だ。
城了(じょうりょう)という僧を祀っている。
願い事が叶うパワースポットとして有名で、願い事が叶うとお礼に穴あき石を供えるとよいといわれている。
実は、横倉山登山口がある織田公園にも、耳なし地蔵がある。
寛永時代、今はなき、横倉寺に城了という、目の不自由なびわ法師がいました.仙英和尚は、仏様の前で、びわを引かせ、自分もそれを楽しんでいました。ところが、おかしなことに,城了は毎晩、寺を抜け出して、夜明けに帰ってきます。「城了さん毎晩どこへ行きなさるのじゃ」「実は、このことは固く口止めされておりますが、毎夜、子の刻になると、身分の高い人の使いの武士がやってきて、山へ案内され、そこで平家物語を語っております」「この世の者が、あの世へ出入りしていると、あの世の者になってしまう。私が縁を切ってやろう」と城了の全身に加持の香水を塗り、迎えの武士が来ても、動いてはならないと、固く申し付けました。あくる朝、和尚は身を案じ、部屋を訪ねると、城了は気を失い倒れています。見ると左右の耳がもぎ取られていました。和尚は自分の手落ちに、ハッと気がつきました。耳だけ塗り落としていたのです。和尚は、目が見えない上に、耳まで無くした、この琵琶法師を哀れに思ってその生涯を寺で世話すると共に、世を去ると、「耳なし地蔵」を造って、供養をしたという。
耳の病気にご利益があるとの事で、いつも綺麗に維持されている。
この話は「耳なし芳一」の話にそっくりだ。
どうやら、小泉八雲が越知町の耳なし地蔵の話を脚色したようだ。
壇ノ浦の戦いだから山口県下関市の話だと思っておりました
ところがこの話にパクリ疑惑が浮上
明治30年代に愛媛の松山に来遊した小泉八雲が妻の小泉節子に
読ませたものを筆したといわれている。(『越知町史』)
高知県越知町に古くから伝わる 『先達野の耳なし地蔵』
この話がモデルになってるみたいなのです
江戸時代からあった話なので、こちらの方がオリジナルなのは間違いないだろう。
駐車場
この日は自宅を車で出発し、耳なし地蔵にやってきた。
駐車場はないので、国道沿いの少し先にある駐車帯に車を停めて歩いて行く。
耳なし地蔵の看板を目印に、横道に入る。
石碑
すぐに、右手に由緒書きが立っている。
その先に、石碑。
千立野の耳無地蔵と書かれている。
千立野はかつての古戦場で、千人塚などもある。
平成14年に建てられた。
耳なし地蔵
耳なし地蔵へは、石碑の先の斜面を下っていく。
意外と歩きやすい。
すぐに、祠がある。
周囲は竹林だ。
思ったよりきれいに維持されている。
確かに、耳がない。
昭和50年と刻まれている。
参拝を終え、元来た道を戻る。
神社
国道からの入り口に、神社が鎮座する。
社名は不明だ。
内部はこんな感じ。
周囲はトタン板で囲われている。
反対側。
拝殿横に、高倉園之助康清祀る、と書かれている。
高倉園之助康清は、平家が壇ノ浦後に逃れてきて横倉山に埋葬された名簿に記載されている名前だ。
平家の宮
周辺部にあった従臣たち80余名の墓祠があり、横倉宮の摂社未社として祭礼が行われてきたが、戦後新たに御霊を一つの宮に合祀招霊し、昭和57年10月に新たに建立したもの。
この平家の宮は、横倉山中の杉原神社の隣に鎮座する。
ここに埋葬されていた物を、平家の宮に合祀したのだろう。
参拝を終え、スノーピークかわの駅おちに向かった。
感想
耳なし芳一の話は有名だが、そのオリジナルがここだったとは知らなかった。
国道からすぐで越知の町からも近く、交通の便も良い。
怪談好き、歴史好きならぜひ訪れたい場所だ。