郡頭神社とは
郡頭神社(こおりずじんじゃ)は、高知県高知市鴨部(かもべ)にある神社だ。
祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)
この周辺は鴨部といい、賀茂氏の所領だった。
その繁栄を祈願する神社で、1,000年以上の歴史を誇る。
郡頭神社
延喜式巻第十(神祇十)神名下(南海道神)土佐国廿一坐の一つである。
「続日本紀」神護景雲二年十一月戌子の条に「土佐国土佐郡人神依田公名代等四十一人
賜姓賀茂」とあり、「新撰姓氏禄」に「鴨部祝賀茂朝臣同祖大國主神後也」とあることからも賀茂氏一族の当地に於ける繁栄と、大國主神を奉斎し崇敬したことがうかがわれる。
延喜式内社であった当社は、明治五年郷社に列し、昭和二十一年神社制度の変革により
神社本庁に所属し、仝年五月十七日宗教法人となった。昭和五十六年五月二十七日、御社殿及び社務所が炎上したが、ご神体間近まで燃え迫った炎は自然に消え御神体は御安泰であった。更に、御神体に関する不思議な霊威はこれにとどまらず、社務所神殿に安置された御分霊も、あます所なく焼け落ちた廃墟に無疵で御安泰、仮殿に遷座すべく奉仕した神職共あまりの神威の高さに慄然とした。
昭和五十八年より一年有半を経過した工事により、本殿、弊拝殿、社務所、神庫、境内諸
設備等を再建新設した。
郡頭(こおりず)とは珍しい名前だ。
由来書きによると、「古保里都神社」と字が当てられていたそうだ。
その由来ははっきりしない。
古来は信仰が非常に篤く、土佐神社に次ぐ土佐二ノ宮の地位にあったそうだ。
現在の二ノ宮は、小村神社だ。
当時の郡頭神社の繁栄は、権力者だった賀茂氏の力関係だと考えられる。
駐車場
この日はとんかつ芳松でランチを済ませ、郡頭神社にやってきた。
まずは一の鳥居を抜ける。
祭日の表記。
二の鳥居までやってきた。
二の鳥居の横に、1台分の駐車場がある。
境内
二ノ鳥居から境内までは、ミニミニサイズの神橋が架かっている。
狛犬。
牛の石像。
撫牛
撫牛とは、自分の身体の病んだ部分や具合の悪い部分をなでたあと、その牛の身体の同じ箇所をなでると、悪いところが牛に移って病気が治るという俗信であり、風習である。この信仰は、まじないの手法のひとつである「撫物(なでもの)」に由来する。すなわち、みずからのツミやケガレ、邪気を人形に移して祓い、心身を清めるというものである。このようなかたちの俗信には、信濃国善光寺(長野県長野市)や奈良東大寺大仏殿前の「おびんずる」(お賓頭盧)や浅草寺(東京都台東区浅草)脇の浅草不動尊の「撫で仏」がある。
撫牛は、病気平癒のみならず、諸願成就にも効力があるとされ、開運を信じて常に牛の身体をなでていれば、出世はもとより、万事願いがかない、みずから思いもよらない幸運に恵まれることさえあるといわれる。子女の無病息災や子孫繁栄などの効能があるともいわれ、東京向島の牛嶋神社には、撫牛によだれ掛けを奉納する風習があり、それを生まれたばかりの乳児に掛けると元気に育つという口承(言い伝え)がのこる。
手水舎。
灯籠。
社務所。
参拝
拝殿。
コンクリート製の大きな建物だ。
本殿。
参拝を終え、摂社へ。
荒神宮と八幡宮が鎮座していた。
由緒書き。
裏参道
反対側の裏参道に回ってみる。
こちら側から見た本殿。
桜の花が、少し残っていた。
裏参道の入り口は、こんな感じだ。
鳥居の脇に、扁額。
大国主大神と書かれている。
参拝を終え、表参道に戻った。
感想
昭和56年に火事で全焼したため、社殿はコンクリート製で新しい。
それでも1,000年にわたり信仰を集めてきた歴史の重さを感じる場所だ。
近くに来たら、ぜひ立ち寄りたい。