鶴ヶ城とは
鶴ヶ城(つるがじょう)は、福島県会津若松市追手町(ふくしまけんあいづわかまつしおうてまち)にある城跡だ。
地元では鶴ヶ城と呼ばれるが、同名の城が他にあるため一般的には会津若松城と呼ばれることが多い。
福島県会津若松市のシンボル「鶴ヶ城」は、約630年前に作られました。正式には若松城と言います。
1868年に起こった戊辰戦争の際には、新政府軍の猛攻に耐えた「難攻不落の名城」としても有名です。赤瓦の5層の天守閣がとても美しい、日本百名城の一つです。
天守の内部は博物館となっており会津の歴史に触れることができます。
一般財団法人 会津若松観光ビューロー から引用
幕末に戊辰戦争の激戦地となり、白虎隊などの悲話が残る。
戊辰戦争が始まり、戦場が会津に移ることで、藩主松平容保は、白虎隊に出陣命令を下しました。一方、日新館は、戊辰戦争の激化に伴い閉鎖となり、臨時病院として使用されるようになりました。その後、戸ノ口原の戦いに敗れた白虎士中二番隊は、炎に包まれた鶴ヶ城を眺めながら、飯盛山で壮絶な最期を遂げました。
駐車場
2021年4月5日、この日はお秀茶屋でランチを済ませた。
そこから車で、鶴ヶ城にやってきた。
駐車場は鶴ヶ城の周辺に何カ所かあった。
廊下橋
駐車場からお堀沿いに歩いて行く。
桜が満開だ。
司馬遼太郎文学碑が建っていた。
11月2日、真の会津の歴史を記した作家の故・司馬遼太郎氏の思いを伝える「司馬遼太郎文学碑」が鶴ケ城三の丸に設置され、除幕式が行われた。文学碑は司馬氏の作品を記した銅板を高さ1.4メートル、幅2.7メートルの磐梯石に取り付けた。碑文は、随筆「歴史を紀行する」と、幕末の会津藩主松平容保公を描いた歴史小説「王城の護衛者」の一節。
その先に福島県立博物館。
まず案内看板でルートを確認。
廊下橋(ろうかばし)が見えてきた。
二の丸から廊下橋を渡り、本丸へ。
鶴ヶ城稲荷神社
桜が満開なのに、梅林には梅の花も咲いていた。
梅と桜と天守閣のコラボレーション。
鶴ヶ城稲荷神社に参拝。
売店で名物という天ぷら饅頭を買ってみた。
醤油をかけて食べるというのが斬新だ。
西大手門跡
梅坂(うめざか)のほうに行く。
北出丸(きたでまる)を通過。
西大手門跡(にしおおてもんあと)まで歩いてきた。
どうやらここから車道になるようなので、戻ることにした。
西出丸跡(にしでまるあと)に上がってみることにした。
荒城の月
本丸に戻ってきた。
荒城の月が流れてきた。
鶴ヶ城は、荒城の月のモデルとなったといわれる。
難解な歌詞の「荒城の月」。
その歌詞のモデルとなった「荒城」は会津若松の鶴ヶ城と
いわれています。土井晩翠は旧制高校在学中に修学旅行で
会津を訪れ、維新後荒れるに任せた城跡や白虎隊で知られ
る飯盛山を見て深い感銘を受け、明治31年に東京音楽学
校から中学唱歌集のため作詞を依頼された際に、会津で得
た印象にinspireされ、また仙台生まれであった晩翠は、青
葉城の光景から「垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐」
の一節を得、「荒城の月」の歌詞を作り、滝廉太郎が曲を
付けました。歌碑は仙台の青葉城址、会津若松の鶴ヶ城址、そして滝廉
太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址に設置
されてます。
荒城の月 – 会津東山温泉 原瀧 から引用
上杉謙信公仮廟所跡地。
表門をくぐる。
石垣の上から、天守閣を見る。
絶好の撮影ポイントだ。
茶室麟閣
茶室麟閣(ちゃしつりんかく)まで歩いてきた。
千利休の子・少庵が建てたと言われる茶室だ。
駐車場に戻り、先に進んだ。
最高点の標高: 237 m
最低点の標高: 219 m
累積標高(上り): 64 m
累積標高(下り): -66 m
総所要時間: 00:54:09