二本松城とは
二本松城(にほんまつじょう)は、福島県二本松市郭内(ふくしまけんにほんまつしかくない)にある日本100名城だ。
霞ヶ城(かすみがじょう)・白旗城とも呼ばれ、城跡が国の史跡に指定されている。
また日本さくら名所100選にも選定されている。
二本松城跡は、中世から近世にかけて同じ場所で存続した東北では稀有な城跡です。
築城は畠山満泰が応永21年(1414)にこの地に居を構えたとされます。天正14年(1586)に伊達政宗により畠山氏が滅ぼされると、豊臣秀吉の奥州仕置以後は会津領に組み入れられ、蒲生・上杉の支城として城代が置かれました。その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封し、以後、二本松藩の居城として明治維新に至りました。このように中世から近世にかけて奥州の要としての位置を占めた二本松城跡は、中世から近世への築城技術の変遷を知ることができる重要な城跡として、平成19年7月26日、国史跡に指定されています。
二本松城跡│二本松城跡の概要 から引用
駐車場
2021年7月5日、この日はパスタ屋La Luce(ラ・ルーチェ)でランチを済ませた。
そこから車で、二本松城址にやってきた。
駐車場はとても広い。
最高点の標高: 442 m
最低点の標高: 193 m
累積標高(上り): 268 m
累積標高(下り): -472 m
総所要時間: 00:45:50
少年隊
まず案内看板でルートを確認。
霞ヶ城址の碑。
二本松少年隊の銅像が建っている。
戊辰戦争―二本松の戦いにおいて、藩の兵力は仙台などの応援兵を合わせても僅かに約1千人、それに対して薩摩・長州・土佐などの西軍は約7千人、徹底抗戦の末、1868年(慶応4・明治元年)7月29日正午前、ついに二本松城は炎上し、落城しました。
落城・敗戦は誰もが予想し得たことでしたが、奥羽越列藩同盟の信義のために貫いた二本松藩の守信玉砕戦は、他藩には見られない壮絶な最期でした。戦死・負傷者の数は記録によって違いがあり、1890年(明治23)に調製された「戦死姓名簿」によると、二本松藩の戦死者337人・負傷者71人でした。負傷者数が少ないのは自分を恥じて届出をしなかったためともいわれ、また他藩の戦死者は200人を超えたといいます。
二本松城跡│二本松少年隊 から引用
箕輪門
石段を上がっていく。
箕輪門(みのわもん)という正門を通る。
ゴミ一つ落ちていない。
さらに上がったところにも駐車場があった(汗;)
ハスの花が咲いていた。
洗心亭(せんしんてい)という江戸時代の建造物。
1907年に現在地に移築された。
城内に唯一残る江戸時代の建造物。「墨絵の御茶屋」と呼ばれた茶亭であったといわれ、天保8年(1837)に阿武隈川河畔に移築され藩主の釣茶屋として利用されていたものが、明治40年(1907)、元の所在地とみられる現在地に再移築されたものです。
本宮館(もとみやだて)
二本松氏の重臣である氏家新兵衛、遊佐丹波守の城館だという。
本宮館は本城の南方約250mの丘陵先端部に所在する幅25m、長さ180mほどの細長い形状の城館であり、「積達館基考」の記述によれば二本松氏の重臣である氏家新兵衛、遊佐丹波守の両名についてこの館主である旨が記されている。
本宮館 二本松城 から引用
洗心滝の脇を上がっていく。
本丸
搦手門(からめてもん)に向かって上がっていく。
搦手門。
ようやく(苦笑)到着だ。
立派な石垣がある。
本丸に到着。
郡山市のビル群が見える。
安達太良山も見えるようになった。
山頂部は見えていないが。
吾妻連峰はこちらの方。
帰路
下りることにした。
アジサイが咲いている。
日影の井戸。
千葉県の月影の井戸、神奈川県の星影の井戸と共に日本の三井と言われている。
県立霞ヶ城公園(国指定史跡 二本松城跡)内にあり、千葉県の月影の井戸、神奈川県の星影の井戸と共に日本の三井と言われ、その深さは16mもあります。畠山氏築城の頃、応永年間(1400年頃)に建設されたといわれています。
日影の井戸 – ふくしまの旅 から引用
ウッドチップの歩道が整備されている。
駐車場まで戻ってきた。
翌日は安達太良山だ。
最高点の標高: 337 m
最低点の標高: 233 m
累積標高(上り): 138 m
累積標高(下り): -138 m
総所要時間: 00:51:58