龍門の滝とは
龍門の滝(りゅうもんのたき)は、大分県玖珠郡九重町松木(おおいたけんくすぐんここのえまちまつぎ)にある滝だ。
落差26m、幅40mあり、鎌倉時代に南宋から来日して臨済宗を広めた蘭渓道隆が、河南府の竜門の滝に似ていることから名付けたと伝えられている。
龍門の滝は、筑紫溶岩台地が削られてできた落差26m、幅40mの豪快な二段落としの滝です。
鎌倉時代、南宋から来日し、臨済宗を広めた蘭渓道隆が、この地に立ち寄り、河南府の竜門の滝に似ていることから名付けられたと伝えられています。
新緑、紅葉の名所でもあります。
龍門の滝
大分県玖珠郡九重町松木
駐車場
2020年5月25日、この日はくじゅう野の花の郷(ののはなのさと)でランチを済ませた。
そこから車で、龍門の滝(りゅうもんのたき)にやってきた。
駐車場はとても広い。
龍門寺
まず案内看板でルートを確認。
この周囲には、磨崖仏(まがいぶつ)がある。
駐車場から滝まで、50m歩く。
吉祥山龍門寺(きっしょうざんりゅうもんじ)まで歩いてきた。
鎌倉時代に南宋から来日して臨済宗を広めた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が建立したと伝えられている。
鎌倉中〜末期の中国からの渡来僧。臨済宗。1246年弟子とともに来日,北条時頼(ときより)の依頼で鎌倉に建長(けんちょう)寺を開創。一時京都の建仁(けんにん)寺に迎えられたが,また鎌倉に戻った。弟子の育成に厳格で,日蓮(にちれん)などから批判,中傷されたが,禅の正統を伝えた功労者とされる。大覚(だいかく)禅師と勅諡(ちょくし)され,その門下は大覚派と称された。
蘭渓道隆とは – コトバンク から引用
兵火により伽藍は消失したが、宝暦(1751〜1764)のはじめに新たに寺坊が建立され、現在に至っている。
徳川四代将軍家綱が寄進したことから葵のご紋の使用が許され、「うら葵」の紋所を使っている。
内部はこんな感じ。
大師堂。
首をかしげた石仏。
龍門の滝
参拝を終え、龍門の滝に向かう。
階段を下りていく。
河原に下りてきた。
これは松木川で、玖珠川の支流だ。
龍門の滝は川遊びができることで有名で、夏季には滝滑りの子どもでにぎわう。
二段の滝で、2段目の滝で滝滑りをするようだ。
蘭渓道隆が河南府の竜門の滝に似ていることから「龍門の滝」と名付けたと伝えられている。
キャンプ場
滝を見終わり、歩いて行く。
キャンプ場があった。
瑞巌寺磨崖石仏
車で、瑞巌寺磨崖石仏にやってきた。
ここはかつて、国東半島の六郷満山を開いたといわれる僧仁聞が、養老年間(717~723年)に創建したと伝えられる瑞巌寺のあった場所である。
県道沿いの石段を上がるとすぐ、崖の下に覆堂がある。
覆堂の中には、増長天、不動明王 、矜羯羅童子、多聞天などの五体の半肉彫りの磨崖仏がある。
制作年代は平安後期~室町。かなり幅があり制作年代ははっきりしていないようだ。
瑞巌寺磨崖仏 九重町 から引用
瑞巌寺磨崖仏
大分県玖珠郡九重町
かつて仁聞が養老年間(717~723年)に創建したと伝えられる瑞巌寺のあった場所だという。
大分県指定史跡になっている。
5体の磨崖仏が鎮座する。
彩色が残っている。
屋根をつけて守ってきたからだろう。
瑞巌寺は天正年間(1573〜1592年)に大友氏の兵火によって焼失し、再建されないまま廃寺となった。
御真言を忘れたおばあ。
車で先に進んだ。
最高点の標高: 1034 m
最低点の標高: 353 m
累積標高(上り): 1307 m
累積標高(下り): -1315 m
総所要時間: 05:19:05