長宗我部元親の墓とは
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、戦国時代にほぼ四国統一をなしとげた武将。
しかし豊臣秀吉に屈し、その命令で出兵した九州征伐の際に長男を討たれる。
失意のうちに逝去することになった。
今は高知市の山中に眠る。
慶長4年(1599年)上洛した元親は、まもなく病に倒れ、伏見の邸で同年5月に61歳で死去した。墓は天甫寺山の南斜面の森の中にある。
愛馬の塚
この日は六体地蔵に参拝した。
参拝後、先に進んでいく。
露地を歩いて行く。
長宗我部元親公の墓の看板に従って進む。
すると、左側に愛馬の塚(あいばのつか)がある。
戸次川の戦いで長宗我部元親の命を救った名馬の墓だ。
長宗我部元親が秀吉から拝領した『内記黒』の墓であると伝えられている。
『土佐物語』によると、戸次川合戦のとき、四国勢は作戦の失敗から、薩摩勢の猛攻により指揮系統は分断され、乱戦の中で信親の生死も分からず、主従わずか21騎となった元親は、武運もこれまでと馬を捨てて戦い、敵陣に斬り込もうとしていた。これを見て、家来の一人が走りよっておしとどめ、自分の馬に乗せようとしたところ、奇跡的にも戦場から内記黒がかけてきたので、家来は「これぞ家運の尽きぬしるし」と大いに喜び、元親を乗せて敵中を突破し、府内に逃れることが出来た」と記され、内記黒が元親の命を救ったという逸話が残っている。
愛馬の塚 – 高知市公式ホームページ から引用
兵士の塚
長宗我部元親の墓に到着。
兵士の塚に参拝。
兵士の塚は、慶長五年(千六百年)十二月浦戸一揆の戦死した長宗我部氏の家臣を祀ったものと古くから伝えられてきたものです。
元は、この地から100m程の天甫寺5086池上家の畑の中に、いつの頃からか祀られてきたものであり、歴史的な文献等は確認されていないが、昔から大切に供養し、地理的にも長宗我部信親公の菩提寺であった天甫寺跡に残されてきた事実から、ゆかりのあるこの地に移転したものです。
尚、移転に際しては発掘は行わず御霊魂を供養の上、この地を新たなる墳墓の地として復元したものです。
長宗我部元親墓|戦国大名・長宗我部元親 から引用
長宗我部元親の墓
坂道を上がっていくと、長宗我部元親の墓だ。
ひっそりとたたずむのは、敗者の悲哀だ。
「戦国武将 父は国親。初陣は永禄3(1560)年
22歳の時長浜での本山氏との戦いであった。
以後15年間に本山、安芸、一条の群雄を滅ぼし
土佐を統一。続いて10年を経て四国を併せたが、
豊臣秀吉に降って土佐を保つ。
翌天正14(1586)年豊後戸次川に大敗後は領国
支配の刷新を図り、検地、城下町建設、掟書き
制定に当たり、政治家としての面目を発揮したが、
慶長4(1599)年伏見に病死、この地に葬られた。」
長宗我部元親の墓 から引用
ちなみに長宗我部元親の長男の信親の墓は、雪蹊寺にある。
参拝し、若宮八幡宮に戻った。
感想
長宗我部元親の墓には以前にも参拝したのだが、随分久しぶりにやってきた。
歴史上の傑人ではあるが豊臣側だったために関ヶ原以後は土佐を取り上げられ、四男の長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)を最後に、長宗我部氏は滅亡してしまった。
歴史の中に消え去ってしまった長宗我部氏は、その英傑の長宗我部元親の墓さえこのような寂しい有様だ。
だが六体地蔵を始め、長宗我部氏を慕う気風は高知に確かに残っているのだ。
最高点の標高: 25 m
最低点の標高: 6 m
累積標高(上り): 76 m
累積標高(下り): -76 m
総所要時間: 01:34:40