天石門別安国玉主天神社とは
天石門別安国玉主天神社(あまのいはとわけやすくにたまぬしあまつかみやしろ)は、高知県吾川郡いの町神谷(あがわぐんいのちょうこうのたに)にある神社だ。
祭神は天手力男命(あまのたぢからおのみこと)
天岩戸(あめのいわと)神話のなかに出てくる神。須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴を恐れた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、天岩戸にこもってしまった。困った神々は、天岩戸から出てもらうために神事を行い、また天鈿女命(あめのうずめのみこと)が卑猥(ひわい)な踊りをしたところ、神々が爆笑した。天照大神が不思議に思い、天岩戸を細めに開いたとき、この神が手をとって引き出した(『古事記』)。
文字どおり手の力の強い神の意であろうが、この話のなかでつくられた神のようにも思われる。しかし、天孫降臨神話のところに、佐那那県(さなながた)に鎮座されるとあり、伊勢(いせ)国(三重県)多気(たけ)郡に佐那神社があるところからすると、伊勢地方の地方神かもしれない。
地元では、「とあけさま」と親しまれている。
土佐国の官社二十一座のひとつである。
創祀年代は不詳だが、平安時代には鎮座していたと考えられている。
1705年に、天文9年(1540年)と書かれた棟札が見つかったことにより式内社に認定された。
天文9(1540)年、同社の上棟についての棟札。縦40.0㎝、幅8.5㎝、厚さ1.2㎝。
県内を見廻しても、室町時代の棟札はそれほど数多くは残っていません。
平安時代、康保4(967)年施行された「延喜式」に土佐国の官社は二十一座(社)とあり、これが「延喜式内社」と言われる神社であって、吾川郡では一社であります。
ところが高知県には、高知県高岡郡越知町黒瀬(たかおかぐんおちちょうくろせ)にも天石門別安国玉主天神社が鎮座する。
明治3年(1870年)の式内比定の詮議で、発見された棟札はこちらから流れてきたものだと決定された。
これにより、黒瀬の方が本来の天石門別安国玉主天神社となる。
創建は不明じゃけんど、 『延喜式』神名帳にある土佐二十一座の一つの式内社になっちょりますが、実は、此処から約14Km程下った仁淀川沿いに、もう一つ同名の「天石門別安國玉主天神社」があるけんど、明治4年になって越知町黒瀬の方が本来の式内社だと確定した論社(似たような名の神社が二つ以上あって、どれが『延喜式』に記されている神社か決定し難いものをいう。)ながです。
現在は「黒瀬の天石門別安國玉主天神社」として知られちょります。
このため一時は村社となったが、大正8年に貴船神社と合祀され、現在は郷社となっている。
大正8年、郷社・貴船神社と合祀し、村社・天石門別安國玉主天神社が郷社となりました。仁淀川上流の黒瀬にも同名社が鎮座し、この社と共に天石門別安國玉主天神社の論社となっています。
天石門別安國玉主天神社から引用
駐車場
この日は七彩舘でランチを済ませた後、天石門別安国玉主天神社にやってきた。
鳥居の横が広くなっており、そこに車を停める。
10台以上停められそうだ。
鳥居をくぐる。
延喜式社天石門別安国玉主天神社と刻まれた石碑。
扁額にも貴船神社と並んで書かれているが、文字数が違いすぎて字が読めない(汗;)
参道
狛犬が石段の上に据えられている。
苔むしている。
笑顔のようにも見える。
5月に入り、ツツジも咲いている。
その横にも狛犬。
手水舎。
参拝
拝殿。
扁額の存在感が半端ない。
参拝する。
内部はこんな感じ。
拝殿から、渡り廊下が社務所に続いている。
本殿。
境内
いの町保護文化財の説明看板。
なにやら石碑があるが、よく分からない。
階段を上る。
摂社に参拝。
参拝を終え、諏訪大明神に向かった。
感想
天の岩戸伝説は有名だが、その岩戸を開けた神を祀った神社はここ以外に参拝した記憶がない。
全国的にも少ないのだろう。
戸隠神社(長野県長野市)、佐那神社(三重県多気郡多気町)、長谷山口坐神社(奈良県桜井市)、白井神社(兵庫県尼崎市)、雄山神社(富山県中新川郡立山町)、手力雄神社(岐阜県岐阜市)、手力雄神社(岐阜県各務原市)、戸明神社(福岡県北九州市)、天手長男神社(長崎県壱岐市)、神命大神宮那須別宮(栃木県那須郡那須町)などに祀られている。
国道からすぐなので、近くに来たら参拝したい。