熊野三所大神社とは
熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮(わかやまけんひがしむろぐんなちかつうらちょうはまのみや )にある神社だ。
祭神は熊野権現三神つまり、夫須美大神(ふすみのおおかみ)、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)、速玉大神(はやたまのおおかみ)
当神社は、熊野権現三神、即ち夫須美大神、家津御子大神、速玉大神を祭神としている。
所有する古文書の中の明細帳(昭和初期の模写)によれば、村社大神社、祭神天照皇大神、配祀彦火火出見尊、大山祇命とあり、又由緒として、祭神寛文記に熊野三所権現とあり、又王子社ともいう。
『平家物語』の維盛の記述に「三の御山の参詣、事故なく遂げ給ひしかば、浜ノ宮と申し奉る王子の御前より一葉の船に棹さして万里の蒼海に浮び給ふとあるは當社なり、藻塩草當國の部に渚宮とあるは即ち當社なり、寛文記に當村を渚宮とあり、往昔神武天皇丹敷戸畔を誅し給ふ地なりと言ふ」と記されている。
渚の森
2022年1月7日、この日は道の駅なちにに車を停めた。
そこから徒歩で、熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)まで歩いてきた。
九十九王子のひとつである浜の宮王子の社跡に建つため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしろ)とも呼ばれる。
樹齢800年の大楠は、ここが「渚の森」と呼ばれ和歌にも詠まれた名勝の森であったということを伝えている。
「渚の森」の由緒書き。
境内
『平家物語』に「神武天皇丹敷戸畔を誅し給ふ地なりと言ふ」と記されているという。
神武天皇が東征の際に、丹敷戸畔(にしきとへ)という女酋長を殺したそうだ。
この地は丹敷浦(にしきうら)という。
道の駅なちにある温浴施設の名前は、この古名から「丹敷(にしき)の湯」という。
丹敷戸畔命とは、『日本書紀』における神武天皇の東征の折の記述に登場する人物で、天皇はひとり、皇子の手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を率いて進み、熊野荒坂津(またの名を丹敷浦)に至られた。そこで丹敷戸畔という者を誅された。そのとき神が毒気を吐いて人々を萎えさせた。このため皇軍はまた振るわなかった。
と、登場してすぐに神武に殺されてしまう土豪の女酋長です(丹敷戸畔の「戸畔」は、女酋長のことを意味します)。詳しいことはまったくわかりません。謎の人物です。
熊野三所大神社:熊野の観光名所 から引用
参拝
神門。
拝殿。
大神社(おおみわやしろ)の御朱印が置かれていた。
もとは熊野三所権現が祀られていたと考えられているが、明治の神仏分離で補陀洛山寺から独立し、明治末年に現社号にあらためられた。
補陀洛山寺とは
補陀洛山寺(ふだらくさんじ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮(わかやまけんひがしむろぐんなちかつうらちょうはまのみや )にある天台宗の寺院だ。
観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った「補陀洛渡海」で知られる。
補陀洛渡海
「補陀洛渡海」で使われた小舟が展示されていた。
遥か南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われ、そのうち25件がこの補陀洛山寺から出発している。
要するに自殺ですね。
土佐清水市の金剛福寺からも出てたよね。
究極の修行だね。
本堂
参拝する。
中に入ってみることにした。
内部はこんな感じ。
燈明を上げる。
本尊は平安時代の千手観音像で、重要文化財になっている。
境内
補陀洛渡海の記録。
世界遺産になっている。
道の駅なちに戻り、ランチだ。
そこから車で、先に進んだ。
最高点の標高: 6 m
最低点の標高: 1 m
累積標高(上り): 7 m
累積標高(下り): -8 m
総所要時間: 00:46:28