明石寺 ⇒ 武士が信仰した札所には熊野神社も鎮座する(第43番札所)

明石寺

明石寺とは

源光山円手院明石寺(げんこうざんえんじゅいんめいせきじ)は、愛媛県西予市宇和町明石(えひめけんせいよしうわちょうあげいし)にある天台寺門宗の寺だ。

四国八十八ヶ所霊場第43番札所で、本尊は千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)

もともとは「あげいしじ」と読んでいた。

これは御詠歌の

「聞くならく千手の誓いふしぎには
大盤石もかろくあげ石」

の「あげ石」からついたという。

現在でもお年寄りの中には「あげいしさん」と呼ぶ人がいるそうだ。

地名にもその呼び名が残っている。

第43番札所 源光山 円手院 明石寺 – (一社)四国八十八ヶ所霊場会明石寺が所在する西予市宇和町には、愛媛県歴史文化博物館をはじめ、宇和文化の里の開明学校、申議堂のほか、高野長英の隠れ家、多くの古墳など古代の遺跡が残されている歴史と文化の町である。明石寺にもまた奇逸な歴史の縁起が残されている。
まず、この地は乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来尊崇されてきた。6世紀の前半、欽明天皇(在位532〜71)の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。のち、天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。

弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ねている。荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。
以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。

第43番札所 源光山 円手院 明石寺 – (一社)四国八十八ヶ所霊場会から引用

駐車場

この日は仏木寺に参拝した。
https://niyodogawa.org/blog/outdoor/shrines-and-temples/temples/88kasho/16874/

その後、明石寺にやってきた。

駐車場は広い。

しかし凹凸があるので要注意。

実際この日も目の前で車の底をこすった車がいた。

駐車場から坂道を上がっていく。

けっこうな石段が続く。

境内

石段を上がると、仁王門だ。

仁王像が鎮座する。

由緒書き。

夫婦杉。

参拝

本堂。

参拝する。

内部はこんな感じ。

天井絵が有名だ。

大師堂。

参拝する。

内部はこんな感じ。

延命地蔵尊。

内部はこんな感じ。

納経所。

しあわせ観音も鎮座する。

熊野神社

明石寺はもともと熊野より十二社を勧進していた。

その関係で、隣接して熊野神社が鎮座する。

熊野神社 « 愛媛県神社庁聖武天皇の天平6年に役の小角の五世の孫、寿元行者が紀州熊野から十二社権現を勧請し十二坊を建立し、明石村天台宗明石寺鎮守熊野十二社権現として奉斎された。

熊野神社 « 愛媛県神社庁から引用

拝殿。

内部はこんな感じ。

本殿。

参拝を終え、車でランチを食べに行った。
https://niyodogawa.org/blog/outdoor/food/16926/

感想

源頼朝が阿弥陀如来像を奉納したり、宇和島藩主の伊達家が保護するなど、武士との関わりが深い寺だ。

とてもきれいに整備されているのだが、駐車場はもう少し整地した方がいいだろう。

売店のおばちゃんは車の方が気づかずこすったので悪いように言っていたが、やはり管理している側の問題だと思う。

現状では車を停めるときは、要注意だ。

石段を少し上っていくので、お年寄りにはキツイかも知れない。